Ehe

 私の人生において、とりわけ印象深い出来事を記そうと思う。


 プリズムショーが世間に与える影響は年々大きくなっている。二〇一四年のクイーンカップ、オーバー・ザ・レインボーセッションをきっかけに広く普及した女性プリズムスターへの憧れを追いかけるように、男性プリズムスタァの活躍の場も増え続けた。現在はどのメディア媒体でも選手の顔を目にするだろう。今では部活動でプリズムショーを選択できない学校の方が少ないほどになり、若者の流行から国民的競技へと完全に昇華したといえる。プリズムスタァ養成校シュワルツローズへの入学希望者もますます増加しており、かつて「マイナーな競技」と評されていたとは思えないほどだ。歌、ダンス、プリズムジャンプを組み合わせた総合エンタテインメントショーという性質から高いレベルに到達するハードルは高く、一定の水準以上の選手を輩出する仕組みを安定させるのが今後の課題といえる。私の仕事は多岐にわたり、エーデルローズ財団理事としての経営業務をはじめ、シュワルツローズ総帥として所属スタァの育成とプロデュース全般の指揮をも執っている。世界プリズムショー連盟としては大規模な大会の企画運営や規則の整備、スタァのみならず指導者の育成に至るまで、プリズムショーという競技全体の環境づくりに尽力している。シュワルツローズ設立当時は世界プリズムショー連盟も発足しておらず大きな大会の直前であったため、個々のスタァの育成とプロデュースに注力していたが、現在は業界全体をどう動かすかを重視している。手ずから集中的に育てるスタァは厳格な基準で選定した精鋭のみとしており、これはシュワルツローズの設立当初に望んでいた職務の縮小とも捉えられるが、さして不満は無い。ショーの完成度を落とすことが無いよう、それぞれの担当部署に私が実践していた戦略やそのノウハウを教育する機会を定期的に設け、スタァだけでなく事業そのものの後継者育成を積極的に進めている。それでこそ時勢や状況に応じて臨機応変に対応できるというもので、自分の手足がより器用になっていくような達成感すらあった。進むべき方向に迷いは無く、やるべきことを着実に積み重ねその成果を眺めるといった、充実した環境において悪戯な冒険心などは芽生えようがない。そんな折、この私が総指揮を執ることになったのは、大規模な大会でもなければプリズムショーを主としたイベントでもない大きなプロジェクトだった。過去に経験も無いのだから本来なら断るべき仕事であったが、受けると決断せざるを得なかったのは、私を直々に指名したのが他でもない如月ルヰだったからだ。
 如月ルヰについて私が多くを語る必要は無いだろう。我がシュワルツローズのトップスタァであり、数々の大会やイベントでその圧倒的な実力を遺憾なく発揮してきた、間違いなく歴史に名を残す随一のプリズムスタァ。その美しさは世代性別を越えて多くを魅了し続けている。物静かで、大抵の場合はとても従順に私が与えた仕事をするが、彼もまた数々のプリズムスタァと同じように確かな強い意志を持ってステージに立ち続けている。妥協を許せない一線はどうあっても譲らない。出会った時から変わらず、優しさとしなやかさと、その儚げな印象からは意外なほどに折れない芯を持つ、たおやかな青年だ。彼は私の教え子でありながら、友人のようでもあった。私に臆せず、媚びず、下心も無ければ私を審査することも無い、接していて心地良いと言える数少ない人物だ。何気ない会話をしているだけで、恩のような――なんとも形容しがたいありがたさを感じる程度には、私は彼のことを大切に思っている。彼の依頼がどんな大仕事であっても、世間を大いに騒がせ、私自身も驚愕するような報告と無茶なお願いだったとしても、否と言いたくない気持ちのほうが理屈の先に湧き、なんでも叶えてあげたくなってしまうのだ。
 まだ肌寒さの残る春の始め、終雪から数週間、東京ではようやく河津桜が咲いた頃。私は珍しく一人で天空ジャグジー風呂から夜景を見下ろしていた。肌に触れる大理石の冷たさが火照った身体に心地よい。薔薇の香りと弾ける泡の感触に気を散らしながら、眠らぬ街を眺めた。ここより上には誰もいない、誰よりも高いというのはやはり気分がいい。世界一の高さを誇る我がシュワルツローズ、その最上階に位置する大浴場の頂点は、私と限られた優秀な者のみが入浴を許された場ではあるが、大抵は誰かしらと居合わせる。しかしその日は少し早い時間帯だったせいか、彼が姿を現したのはしばらく経ってからだった。音も無くそっと湯に入ったルヰは軽やかに「こんばんは」と言って傍らに座り、静かに私の話に耳を傾けながら、ふとした沈黙の訪れを待っていたのだろう。ルヰから私に何かを語ることは珍しい。「仁さん」と呼びかけられて、私はどこか嬉しく思いながら「何だい」と見つめ返した。非の打ち所がない微笑のまま、ルヰは私に秘密を打ち明けるように顔を寄せて「会って欲しい人がいます」と囁いた。
「改まって、一体どうしたのかな」
「…………だめ?」
 そのあまりにも愛らしい上目遣いについ笑みがこぼれた。だめ、などとどうして言えようか。
「一体誰に会えばいいんだい」
 如月ルヰは頬をぽっと赤らめて「ひみつ」と目を伏せた。
「では、秘密主義の美しい子は一体いつをお望みなのかな」
「……いつでも、すぐにでも」
 悪戯が成功したように笑みを深めて、小首をかしげたその小さな頭から、月明かりの色をした髪がはらと落ちて揺れていた。多少の困惑はあったが、ルヰにねだられて断るという選択肢は無い。私は温水のぬくもりを名残惜しみながら、ルヰの望んだままに通常よりも短い夜の入浴を終え、丁寧に身支度をして、より特別な数人しか迎え入れたことのない執務室にて一人で客人を待った。職務のための制服ではなく、淡い藤色のスタンドカラーシャツにセンタープレスの入った濃紺のスラックス。最低限の上品さと、ルヰと客人のために用意したプライベートな時間なのだと示す柔らかさを着用した。一体誰が訪ねてくるのか想像もつかず、あの楽しそうな反応を思えば少なくともルヰにとっては悪い話ではないのだろうと、扉をじっと見つめることしかできない。ルヰは散歩が好きで、気が付けばふらりと姿を消していることも多く、掴みどころの無い気まぐれさに翻弄されるのも――ルヰに限っては――嫌いでは無いのだが、こういったサプライズは初めてのことで、困惑が勝っていたように思う。程なくして控えめなノックが二回、応える前に「マレでーす」と気の抜けた声が聞こえたので脱力しつつ、入るように言って深く座りなおした。そわそわと浮ついた様子でそっと扉を閉めたマレは、私の隣に座ると忙しなく両手を擦り合わせていた。
 蓼丸マレについては私こそが多くを語らねばなるまい。とはいえ特に目立った成績や秀でた才能も無い、どこにでもいるような男なのだが、これは私の恋人である。そしてルヰの親しい友人でもあった。
「お前もルヰに呼ばれたのか」
「うん! 仁さんと一緒に会って欲しいって。楽しみだなあ、いよいよなのかな……」
「心当たりがあるんですか?」素直に感心しつつ尋ねると、「あるよ、八十%くらい!」とよくわからないパーセンテージを返された。詳しく訊いたところで私の理解の範疇外だろう。
 マレの緊張感の無いへにゃりとした顔と、身体の線を隠すユニセックスな――形容しがたい、どう着ているのかわからない黒い布の塊のような装いを眺めていると、私はもう少しシャンとしなければいけないような感覚になり、結局スラックスと同じ生地に控えめな刺繍の入ったベストを着た。客人が誰であれ威厳は保たなければならない。
「ぼくねえ、遅くなっちゃったけどお風呂一緒に入ろうと思って準備してたとこだったの。でも仁さんもうあがっちゃったね〜」
「この後も入るつもりですよ」
「ええ? ……あ、もしかして、ルヰのために急いで終わらせてきたの?」
 無言の肯定を返すとマレは、かわいいと顔に書いてあるような表情で私を見つめてから「じゃあ、後で一緒に入ろ〜ね」とふにゃふにゃに溶けた笑顔で腕を絡めてひっついた。そのまま好きに遊ばせて、この後も風呂に入ると言ったから遠慮せずくっつくようになったのかとようやく思い当たった頃に、再び落ち着いたノック音が来客を告げた。マレが姿勢を正すのを見届けてから、どうぞと入室を促す。まるで天使がそっと舞い降りるようななめらかな所作で優雅に二歩、「仁さん、機会をくれてありがとう。紹介したいのは、僕の大切な人――」どこか晴れやかで嬉しそうなルヰに続いて、しかし全く正反対の、顔も手足も石のように固まった男が、どうにかやっとといった様子で隣に並んだ。「――一条シン、くん」ルヰの声に合わせて、そいつはギギギと錆びた音がしそうなほどにぎこちない動きで必死に頭を下げていた。マレが横で嬉しそうに小さく拍手をしていたので、どうやら八十%は命中したらしいと、その紹介された名を反芻するより先に思った。
 一条シンについて私が知っているのは、エーデルローズ創始者である我が父、法月皇が亡くなったのちに、経営の才という才を一切持たない後継者である氷室聖のせいで落ちぶれた校舎にやってきた稀有な阿呆であることと、その素直かつ明け透けなメンタルでどうにもクオリティに幅のある演技をし続けているプリズムスタァであること、ルヰがかつてデュオを組むなら彼でなければ嫌だと指名した大層なお気に入りであることくらいだ。彼もまたどこにでもいるような、いかにも普通の庶民といった感じで、特にこの時は舞台上で見せるようなオーラが全く無かった。プリズムショーを全く知らない人物に「彼はアイドルのような活動をしている」と伝えた場合、高確率で意外そうな反応をするだろうと思う。さっぱりとした短髪に明朗そうな人相はいかにも大衆が親しみを抱きやすそうだ。その平凡さについて真面目に表現するのはなんとも無駄に思えるのでこのあたりにしておくが、とにかくルヰにとっては唯一無二の存在らしい。印象に一番残っていない、好意も嫌悪も特に抱いた覚えのない同級生だとか、同僚を思い浮かべることができたのならまさにそれ、のような男に、ルヰがそんなにも惹かれる理由は今でも何一つ思い当たらない。
 二人に座るよう促すと一条シンは更に汗をふきだして、「失礼します!」と大きな声で応えた。マレが軽やかに「どうぞどうぞ〜」と言うのを聞いて初めてその存在に気付いたようで、「あ、マレくん……」とあからさまにほっとした顔になった。マレはその醸し出す無害でひ弱な馬鹿っぽい雰囲気によって大抵の人間、いや動物にさえ舐められている。
「それで要件は何です? ルヰが随分と前から彼を気に入っていることはすでに知っているが」
 脚を組んで威圧するように一条シンを見た。私のテリトリーで緊張感の無いだらしない顔をするのはマレだけで充分だし、この子の隣に居るせいで私までやわに思われるのは心外だった。キュウと再び縮こまる一条シンを気にすることも無く、ルヰは嬉しそうに、これ以上なく幸せそうにはにかんで、一条シンの腕にそっと身を寄せて歌うようなご機嫌な声で宣言した。
「仁さん、僕、シンと結婚します」
「え! わっ! うひゃ~!」
「待て待て待て」
 相談でも伺い立てるでもなく、生まれた時からそう決まっていたように何の疑いも無い宣言だった。調整や発表などのやるべきことが考えずとも思考に溢れたし、それに伴う障害と言って差し支えない苦労もいくらでも思い浮かんだ。しかしルヰは、そんなことは自分に何の関係も無いように、ただ当たり前にそうするものなのだと、私の意思や立場なんかも当然関係なく……ただの好意で私に愛おしい秘密を打ち明けたに過ぎないようだった。とはいえ一条シンはそう思えてはいないのか、私の言葉を怖がるようにギュッと目を瞑っていた。こっちはおそらく私の承認を得る心づもりなのだろう。柔らかい頬を桃色に染めた幸せそうなルヰと、「よかったね」「おめでとう~」と一緒になって浮かれたマレは私の困惑などには気が付かないで、顔を合わせてにこにこふくふくしていた。
「決めること――いや、確認したいことがいくつかある」
 はっとしていい子に口を噤んだマレはともかく、ルヰは笑みを絶やさなかった。彼は賢く覚悟がある。口にした話題がどんなに突飛で非現実的な話で、普段の従順さからかけ離れていようと、決して考え無しではない。
「活動はどうする」
「僕もシンも継続します」
「住まいは」
「僕はここを出て、シンと二人で暮らします」
「……発表と、式は」
「そのことで、仁さんにお願いがあって」
 淡々と進んでいく会話を前に一条シンは緊張を忘れたように唖然として、マレは慣れているのでにこにこして頷いていた。一条シンの呆けた顔は、なぜ私が結婚に反対しないのか理解できないと思っているのがありありとわかって、滑稽で多少愉快だった。そもそも私にはルヰの人生を縛る権利など無い。わざわざ教えてやる義理も無いのでこの時口にはしなかったが、特にそう、誰と共に人生を歩むべきかについて、私が口を出す理由も必要も無い。如月ルヰは従順であらゆる期待に応え続けているが、私はどこか神秘的な、自由で軽やかな彼の一面も好きだ。それが穢されないよう尽力することに躊躇いは無く、ルヰが望むなら総力を挙げてこの甘やかな秘密を秘匿しようと、イエスを口の中で形作ってルヰの言葉を待った。
「みんなへの発表の方法と……素敵なウェディングプランを、仁さんにお任せしたいの」
「はい。…………はい?」
 言葉を咀嚼するための沈黙。マレはずっと嬉しそうに私の腕を掴んでいた。
「メディア戦略の実力には自負があるので理解できます、エーデルローズにも指示を出して、大衆が祝福するよう発表することは可能です。だがその、ウェディングプランというのは……な、なぜ」
「あっあの!」それまで口をキュッと結んでいた一条シンが、意を決したというよりは言わずにいられなかった様子で、直接私に話しかけてきた。純情そのもののような真っすぐな眼差しに多少の居心地の悪さを感じつつ視線を返す。「イベントやライブ、ショーのコンセプトの素敵さと、それを実現する技術がすごいって、僕とルヰくんでよくお話ししていて」そうそうそうなの、よくわかってるねと言いたげに大袈裟に頷くマレを無視しながら視線で言葉の結びを促した。
「だからっ……その、僕たちも何が必要かとかよくわからなくて、呼びたい人ややりたいこと、会場のイメージなんかを書き出してみたんです」
「仁さんに、僕たちの結婚式のプロデュース……総監督をお願いできたら、きっと人生最高の日が……もっともっと最高になる」
 浮かれた若者二人が何やら先走ってよくわからないことを言っている、と思った。いくら聞いても脳が理解するのを拒むので、その稚拙な企画書を置いていくように伝え、今日はもう遅いからとか部下に確認を取って改めて連絡するとか、なんだかたくさん言い訳をしてとりあえず二人を帰す方向に話を逸らしたと思う。投げ出してしまいたかった。去り際にいくらか緊張のとれた一条シンが「法月総帥って、なんだかルヰくんのお父さんみたいですね!」とまたわけのわからないことを言い出したので「違う。全く違う」と強く否定したのをよく憶えている。
 マレと風呂支度をしながらも私は何度か、全く意味がわからないとか、なぜ私がそんなことを、といった内容の愚痴を言っていた。マレは「そうだねえ」と受け流しながら「仁さんの気が乗らないなら、やーらないって言っちゃっていいと思うよ」と繋いだ手をにぎにぎしていた。中断していた入浴を再開して、肩まで浸かればいくらか気分も落ち着いた。長く息を吐いて眼下に広がる景色を眺める。マレは変わらず私の手を握っていた。
「やりたくない」
「うん」
 ルヰ直々の指名と思えば確かに光栄ではあった。結婚、という言葉には面食らったが、活動の継続もこのビルを出ることも想定内だった。好きにすればいい。一寸の狂いも無い教育と調教への過信を経て、プリズムショーとはそう・・ではないらしいと理解し、その上での模索を重ねてきた今現在として、反対する理由は本当に何ひとつ無かった。そもそも私自身にはあまり関係のないことだ。元プリズムスタァ同士の結婚は男女ではあるが最近にも前例があるし、公表についてもよほど下手なことをしなければ、懸念事項は無いに等しいだろう。一条シンのファン層はどうだか知らないが、ルヰのファンには一条シンと公私共に仲の良いことが知れ渡っている。応援する者も少なくない。何ら問題は無いのだから、勝手に、好きにすればいいのだ。
「ルヰが幸せそうでも、嬉しくない?」
 お湯を手でゆるくかき混ぜたり、掬って落とすのを繰り返しながら、マレは私の気分を解そうとした。私は心地よさを感じながら、マレの優しさに応えることを決める。
「ルヰが良いならいい。俺を巻き込まずに、好きなように幸せになればいい」
「僕はね、ちょこっとルヰの気持ち、わかる気がするよ。たぶん……」
 私に伝える言葉を、マレは丁寧に選ぶ。
「ルヰは仁さんのことが大事だから、自分の大事な時に、仁さんにもいて欲しいって思ったんじゃないかな」
「……台無しにしてしまう予感がある」
 マレの言葉に向き合おうとすると自然、己に向き合わねばならない。
「その……結婚の、幸せが、俺にはわからないから」
 ルヰの感じている幸せに共感し、同調し、ましてその舞台の指揮を執るなんて、プロジェクトの完遂も見えなければ私がそれを手掛けるところを想像もできなかった。知らないことは空想もままならない。それでも、できないと拒めばルヰの幸福感に傷が付く――それだけがわかっていた。
「そうしたいなら……共に居たいなら勝手にすればいい。勝手に……」
 私がそうしているように。声にはしなかったがマレには伝わったのだろう、いくつかのことを同時に感じているような微妙な顔をして微笑んでいた。
 しばらくの沈黙、風とそれが撫でる水面の揺らぐ音だけがあって、雲の切れ間にまみえる星を視線でなぞった。その横顔をじっと見つめていたであろうマレが「仁さんは優しいね」と言い、これまで幾度も聞かされたとても同意できかねるそれを、私はいつものように、マレにとってはそうなんだろうと思うことで聞き流したのだった。

 私の結婚観は両親の影響が大きく、金だとか権力だとか人脈だとか、家や自分自身に利があり必要だからするものという認識がやはり強い。利己的に有用な社会的な制度のひとつとして「結婚」の活用を決断する時、そこにあるのは愛とは程遠いものだ。世間一般の感覚としてその限りではないと知識の上では知りつつも、どんなに愛し合っていても条件が合わなければしないというようなケースはそう珍しくない、らしいのだから、根本的な部分では同じだろうと思っている。知性の欠けたほとんど猿のような人間はともかく、思考能力が人並みにもあれば、結婚の決断を最終的に下すのは決して……愛ではないだろう。
 蓼丸マレを恋人だとしたが、より正確に言えば実態はいわゆる事実婚になる。世界一の高さを誇る我がシュワルツローズ、その上層階にある私の居住空間でプライベートを共に――つまり同棲、していて、マレが喜ぶからと単純な理由で揃いの指輪も誂えた。秘書部に席を用意して仕事も与えた。そうまでしてマレを手元へ置くことに執着がないと言えば嘘になるし、現状を維持するために何か努力が必要ならば惜しまずするだろう。感情をより紐解くならば、私に「僕と家族になって」と望んだマレに、その言葉に最大限応えるために行動している。曖昧な概念なので断言はできないが、私は蓼丸マレを愛しているのだと思う。第三者がこの現状を客観的に見たとしてもそう判断されるだろうと思う。マレは平凡な家に生まれ、本人にも特別な能力や価値は無く、どこにでもあるような家のどこにでもいるような人間だ。結婚したところで私に何の利ももたらさない存在ではあるが、入籍という選択肢がはなから無かったわけではない。同棲を開始してすぐの頃、籍を入れたいかとマレに尋ねたことがある。マレは「憧れはあるけど、よくわからないから、仁さんが要るなら」とぼんやりとしたことを言っていたので、私の好きにしてしまおうと思った。誰にも言わずにひっそりと思考を重ね、最善を検討した上で、何もしない決断を下したのだった。理由は大きくふたつある。ひとつ、私は法月家を離れることができないので、蓼丸家の籍に入ることは現実的にも心理的にも不可能であること。ふたつ、法月家、そして母の生家である有栖之園家に存在する伝統やしがらみや価値観でマレを縛ったり、抑圧してしまうのが嫌だった。我々に巻き込まれてマレが苦しんだり何かを失ってしまう姿は想像がとても容易で、現実になるのが嫌だった。
 結婚や入籍に関する私の個人的な考えは誰にも、マレにも伝えたことはなかった。いずれ母から私にも縁談が持ち上がるだろうし、跡継ぎについても行動しなければならない時が来るだろうが、私の抱える結婚にまつわる多少の問題について、マレには知らせないまま処理してしまいたい思いがあった。私にとっては、面倒事に違いはないがいちいち気に病むほどのことでもない。その程度のつけるべき家との兼ね合いはほかにもいくらでもあった。
 結婚が愛のままにするべきものなら、私はマレとこそ結婚していなければおかしいのだ。愛のままにする結婚が人の手にできる最上の幸福なら、私とマレの現状は耐えがたい苦痛であるはずなのだ。現実にそうではないのだから、やはり結婚の幸せというやつを理解するのは、私にとっては無理難題のように思える。
 中断されたぶん満足いくまで風呂を堪能して、自室に戻った頃には普段ならまもなく就寝する時間だった。そう簡単に答えの出ないことを湯船で考えるのはやめようと、マレの大きなあくびを見て思う。
「付き合わせてしまったな」
「仁さんにお付き合いするのがぼくのしあ~せ~」
 ゲームの棚を物色しながら「今日はよふかししちゃおかな~」と眠気の滲む声で言うので「私はもう眠い」と伝える。こう言えば素直に布団に入ることを知っていた。
 ビル全体の清掃を依頼している業者や寮につけている料理人をはじめとしたスタッフとは別に、私の私的生活空間を担当するハウスキーパーを雇っている。彼、もしくは彼女が整えた皺の無いベッドに腰掛けると、何かに気付いたマレが「わあ」と嬉しそうな声をあげた。「ルヰがね、シンくんと暮らす新居選びがたのし~って」スマートフォンを操作しながらそう言うので、チャットツールか何かに連絡が来たのだろう。ルヰとマレはどちらもぼんやり――のほほんとしていて、波長が合うのか仲良くしているらしい。物静かなルヰはともかく、マレは時に喧しく無遠慮に様々な人に話しかけていて、本人も他人と仲良くしたいと思っているくせに、あまり友人がいない。そのせいかこういった場面で私はいつも、ルヰがマレの相手をしてやっているような印象を持つのだった。
 明かりを消して横になると、先に布団でもそもそしていたマレがぴたりと私にくっついた。
「……明日は、母に会おうと思います」
 掠れた小さな呟きになったのに、誰よりも私の近くに居るマレは正確に聞き取ったらしかった。
「僕も行く?」
「いや」
 短く答えた後、なんと続けるべきかわからなくてしばらくの沈黙になった。諦めて「おやすみ」と目を瞑ると、マレは私の頬に唇を押し当ててから「おやすみ」と応えた。
 感情を抜いて単純なプロジェクトとして考えると、やらない理由は無いように思えた。ルヰはシュワルツローズの顔といえるほどの知名度と人気を兼ね備えているし、YMT29をはじめとした所属スタァを出席させたり、プリズムショーを組み込めば大きな話題性もある。料理や内装をはじめ用意しなければならないものも多く、有栖之園家と関わりのある企業と連携すれば利もあるだろう。念のため明日、母の意見を伺う予定だが、おそらくそのまま動き出してしまうに違いなかった。相手がエーデルローズ所属という点を除けばメリットしかない。しかしそれこそが私にとっては見過ごせない要素であった。
 現在のエーデルローズはトップがあの愛だの煌めきだので頭がいっぱいな氷室聖である。こちらが指揮を執ると言っても素直に聞き入れず、共同でやろうと言い出すような気がする。そしてこちらのスタァに見せ場を作ればあちらもショーをしたいと提案するだろう。想像しただけで気が滅入る。氷室聖と共同主催者など絶対に嫌だ。遠慮なく叩き潰して良いのなら話は別だが、あからさまな贔屓は一般人から見て心象が悪くなりかねない。双方の花婿を立てねばならないのだ。
 やはり別の者に代理を任せてしまうのがいいだろう。個人的な感情で母にとって利のあるプロジェクトを流すことはできないが、私自身の手で成し遂げたくもない。氷室聖や一条シンの友人たちと揉めずに、それでいて私の意見が通るよう従順にきちんと働く者に任せよう。
 ふと、幼稚な企画書を受け取る時に見えた文字列を思い出す。たしか「料理は鷹梁ミナトさんと神浜コウジさんに」……もう勝手にエーデルローズでやれという気分になった。

 生まれ育った家に戻るたび、少し憂鬱な気分が沁みてくる。今朝はシーツに爪を引っ搔けてしまったし、紅茶がいつもよりわずかに冷えていたし、通常なら何日も何週間も前にアポイントを取るのに、昨夜母の執事に連絡を取ると丁度延期になった会合があるとのことで、急遽お会いくださることになってしまった。些細な綻びの数々を見透かされ、私は「不合格」になるのではないかという不安がいつも息を詰まらせた。この家は何も変わっていないのに近頃はどうにも嫌な感じがする。これまでの人生において呼吸がしやすい場所なんて数えるほども無く、生まれてから毎日、ひとつひとつの所作や発言や選択が、私がまだ存在してもいいのだと許可を得るための、法月仁でいるための試験だった。
 マレは、私があの屋敷に出向くのを見送る日は決まってぎゅうぎゅうとひっつく。何にも関係は無いはずなのに、誰よりも不安そうに泣きそうな顔をして「行ってらっしゃい」をする。まじないのようなやりとり思い出すと少しだけ、息を吸えたような気がした。
 母、法月愛はとても寡黙な方だ。私的な会話をしたことも、父を含め誰ともしているところを見たことも無い。常に必要なことだけを端的に発言なさり、多忙ゆえ要件が済めば迅速に退室してしまうので、どういった人物なのかを私から説明することは困難だ。私自身をどう評価しているのかもわからない。幼少期に「相応しくない」点についてお叱りを受けた記憶があるため、自我が芽生えてからは「相応しくあるように」を一番に考慮し行動してきたが、その後特に批判されたことは無い、とだけ言える。
 普段通り母は相槌を打つことも無く、私に一瞥もくれず報告を聞いた。依頼を受けたこと、多数企業と連携した大きなプロジェクトとしての有益性、私個人への依頼ではあったがシュワルツローズ全体で引き受け、実働は部下にさせる形で現在の私の仕事に影響が出ないようにすることを伝えると、母は連携企業について有栖之園家と協議するとした上で「よしなに」と締めた。私は礼を言って深く頭を下げる。これが私の歳の数だけ続いてきた母との普段通りの会話であり、いつものように、母が退室するのを顔を上げずに待っていた。
わたくしからも一点」
 そのあまりの珍しさに一瞬反応が遅れ、慌てて姿勢を正す。私が「はい」と返事をするのを待って、母は口を開いた。
「縁談があるわ」
 喉が締まる。息を吸って、吐くだけの動作に唇が震えた。声を出せそうになかったので、母が返事を待たずに続けてくださったのは幸いだった。
「詳細はここに」
 相変わらず私に視線を向けないまま、ゆったりと優美な仕草で二つ折りのポートレイトを取り出し、差し出した。
「縁談、ですか」
 情けない返答だった。母の言葉をそのまま繰り返すなど、言いながら失態だと自覚していた。それでもそれ以外の言葉を発することができず、差し出された物をそのままにするわけにもいかず、私は両手でうやうやしく受け取った。上質な手触りのパールホワイト。この場で開いて拝見するより他になかった。
「……うつくしいひとですね」
 完璧な写真だった。その姿勢や表情から慎ましさと上品さ、風格の感じられる若い女性。ぷくりとしてよく色付いた頬は少女のような可憐さがあった。その隣には、名前をはじめとした簡単なプロフィールが直筆で記された手紙があった。写真と同じように、非の打ち所がない美しい文字だった。母が彼女を合格させたことは容易に理解できた。理解はできたが、それ以上のことは何も考えられなかった。
「……」
 母の沈黙が刺さるようだった。己に手札が無い緊張とはあれほどかと、後になって思う。
「あなたも、プリズムスタァが……欲しいのかしら」
「い、いいえ」
 母は私の言葉から消極的な態度を読み取ったらしい。そして恐らくは、母の亡き夫、私の父でもある法月皇を連想したようだった。
「…………たしか……そう」
 私の返事は聞こえていないといった風にどこか遠くを見て、聞き取れないほどの小さな声で母は何かを呟いた。ゆっくりと首を傾ける様子は、記憶の箱を傾けて底に隠れたものを暴こうとしているようだった。その瞳が何かを捉えて止まる横顔を、私は見つめることしかできない。
「天羽、ジュネ」
「彼女は」
 今日は間違えてばかりだと思った。考える前に私は、実に驚いたことに、母の言葉を否定するために声を発していた。
「私のものにはなりません」
「なるわ」母の返答も早かった。苛立たせてしまったのかもしれない。
「望むなら、手に入るわ」
 二度も母の言葉を否定する選択肢は無く、押し黙る。しばらくの沈黙の後、母は何も言わずに立ち上がったので、私は再び深く頭を下げて母が去る音を聞いた。予期していたつもりだったが、どうやらマレに影響されて私も楽観主義者になっていたとしか思えない。動揺し、何一つ上手く対応できなかった自分を恥じた。準備が足りていなかった。大きな後悔が首筋を冷やしたが、刻を戻せたとしてどうすべきだったのかもわからなかった。マレが私の前に現れなければこんな不都合は起きなかっただろうが、今からその辻褄を合わせてしまう気も起きなかった。なぜならこの時思考を落ち着けるための深呼吸ができたのは、マレのことを考えたからだ。それは植物のように、ただそこにあるだけで吸いやすい空気を生み出して、私に呼吸をさせてくれる。私の意思で手放すことは不可能だった。
 天羽ジュネは、史上最年少でプリズムクイーンとなった美しい女性で、ファッションブランドDear Crownの創設者でもある。その慈愛に満ちた微笑みを一度見たら忘れられる者はいないだろう。かつてのエーデルローズに所属しながら氷室聖をコーチとして王座を勝ち取り、そのまま私の元を去った。これ以上なく相応しいひとであることは認めるし、事実私も何度か勧誘しているが、いつでも氷室聖の元へとかえってしまう。その意思の強さはどこかルヰにも似ていて、母がそうと言ったことが叶わない様子も想像できないが、天羽ジュネが誰かの言いなりになるところも同じだった。それでもどちらかといえば、私は天羽ジュネが母の思い通りにならないことを期待していたように思う。何事も無かったことになってしまえばいいと思った。
 帰宅は十五時を過ぎた頃になった。チャットツールで連絡を入れると、了承と共に「おやつ一緒にたべよ~!」と誘いを受けたので「はい」と簡潔に打ち込んでいた。玄関を開けると忠犬のようにそこで待っていたマレに出迎えられて、おかえりおかえりとまたひっつかれた。どんなに取り繕ってもマレには察されることが多い。私の尋常ならざる疲弊を感じて余計にひっついていたのかもしれない。午前中は買い物に出かけていたらしく、見た目に惹かれ試食で気に入ったクッキーなのだと説明を受けながら、ティータイムを過ごした。
「ねっねっ、美味しいでしょ? 美味しいかな」
「うん、美味しい」
 ニコッと微笑んでみせた。マレは現役時代、それも十代のまだ幼く未熟な私を見て大好きになったのだと誰にでも言う筋金入りのファンなので、私の笑顔には滅法弱いはずなのだが、この時ばかりは素直に大喜びせずにしばし停止していた。愛想笑いがそんなにもはっきりとわかるのなら、マレを安心させるためなのだと察してくれればいいものを……と思ったが、その聞き分けのなさ故に、私が丁寧に引いた他人との境界を飛び越えて現状へと収まったのだ。長所とも言える性質に不満を持つのはナンセンスだろう。
 その後もマレは私の顔色を窺っていたように思う。いつも饒舌ではあるが、沈黙を恐れているような様子でずっと話していた。私の顔色が帰宅時と変化しないので焦っていたのかもしれない。とにかくどこか余所余所しいマレの態度を見て、この件は早々に片付けねばならないと思ったのだった。無論マレには何も明かさず知られぬままに、迅速に、的確に。そのためにはもう間違っていられないと背筋を正した。

 連携企業の手配は滞りなく進んでいた。やはり財政界に大きな影響力を持つ有栖之園家と関わりの深い分野は多岐に渡る。望めば全て叶う環境でプロジェクトを進めることができるだろうと安易に想像できた。ついでにあの稚拙な企画書をどこに出しても恥ずかしくないよう手ずから書き直して各所に添付してやった。この件についての私の仕事はほとんど終わったといっていいだろう。プロジェクトの土台が整いつつあるので、改めてルヰらに引き受ける旨を伝え、エーデルローズとも話を始めるために、特に従順な蓼丸マレと高田馬場ジョージを使うことにした。必要書類、資料に加え例の稚拙な企画書の原文コピーを持たせて送り出す。高田馬場ジョージは私の与えた仕事に対し手段を問わずに結果を出す胆力があり、多少の無理を通してでも思い通りに事を進める鍵として使えるだろう。マレにはそういった類の強引さは無いが、ルヰの友人であり一条シンの学友たちとも知らない仲ではないため、おそらくふにゃふにゃと良い緩衝材になる。そして双方が私に従順で、決して裏切らない。必ず私のために良い働きをする。全てが順調といえた。
 高田馬場ジョージという男については、概ねメディアで取り上げられている印象のままと言って差し支えないだろう。ユーモラスなキャラクターだが根性があり、特にプロ意識の高さはよく評価されている。そのサービス精神が惹きつけた根強いファンも多い。成績によるポジションの入れ替え制を取るシュワルツローズトップグループYMT29、その首位を守り続ける彼の努力について私は指導者として多くを知っているが、詳細をこの場で明かされることは本人も望まないだろう。故に個人的な所感として言えることがあるとすれば、決して器用な男ではないが私から見てもよくやっている、そんなところだろうか。マレは特にジョージのことをとても気に入っていて、一緒に仕事ができることを大袈裟に喜んでいた。その好意を素直に伝えることに一切の躊躇が無いので、ジョージは鬱陶しそうにしていたがまあ内心は満更でもないだろう。
 プロジェクトと関係の無い通常業務をこなしながら縁談の件をどうするべきか考えていた。母がやると言って実行しなかったことは無いので、おそらく近々私は天羽ジュネと対峙することになる。彼女はきっと不服な顔で、自身の意に反して席に着くだろう。私が一言断れば双方に気のない縁談は当たり前に破綻となるはずだ。母は私の「天羽ジュネにその気がないから結婚は叶わない」といった趣旨の発言のせいで、理由にならない理由を述べてしまった私の失態をそうと知らずに正そうとしてくださっている。よく考えて、今度は間違えないように、なぜ天羽ジュネと結婚しないのかをきちんと話しさえすれば別の相手を見繕ってくださるだろう。
 天羽ジュネと何事も無くとも、縁談自体は何事も無くなりはしない。私はどういった人物とどんな契約内容で婚姻を結ぶべきなのか、そこを熟考する必要があった。断ってから考えた結果天羽ジュネがさまざまな意味でやはり一番相応しかった、などとなってはあまりにもお粗末だ。
 結婚する一番の目的はやはり跡継ぎを作ることだろう。両親の場合は父の事業の資金面を母が持つためといった理由があったようだが、生憎私には家への利益面での心当たりは無い。そもそも私の役割は父の跡を継ぐことだ。父の死後、母が私に望んだのはプリズムスタァに限らない世界有数の人材を育成する『King’s college of triumph under Schwartz Rose』、通称『トリオンフ校』を設立し、その理事長を父と同じように務めることだったが、聖を主宰に迎えたエーデルローズをそのまま放置するわけにもいかず、私が責任をもってシュワルツローズの設立・運営を担当している。つまりいずれは私も理事長として父と同じ立場になるよう定められていて、そして私の次に、トリオンフ校やシュワルツローズの経営母体であるエーデルローズ財団の理事長を継ぐ人材を育む必要がある。それらを考慮すると、結婚相手は法月家にふさわしい格のある経歴と実績を持つ子供を産める女が最低条件だろう。加えてきちんと自身の役割を弁えていて、私や母に従順であるべきだ。特にマレを巻き込むような性質ではいけない。私自身に好意や興味を持たず淡々と子を産み育てるだとか、何かしら法月家の女としての務めを果たす……とにかく天羽ジュネのような意思の強い者は相応しいとは言えない気がする。念のため、母に先日のポートレイトの相手が出している条件を確認して、問題がなければ彼女で構わない旨を伝えよう。
 その程度なら執事か秘書あたりが把握している可能性を考え、メールを送っておいた。返信は思いのほか早く、やはり母の手を煩わせるまでもなく相手方の条件が記載されていた。
「……これは……」
 要約するとそれは、情のある婚姻を結びたいといった内容だった。おそらく箱入り娘であろう彼女が、夢見心地で挙げたであろう恋愛や結婚への憧れの羅列。彼女の両親も目を通した上で私の元に届いているのだろうし、娘を溺愛している家庭なのだろうと容易に思い当たった。なるほど親孝行者らしく、会食どころではない旅行やレクリエーションに参加し、彼女が愛するように彼女の両親を愛することを求められている。しかし、それだけだった。金銭や事業や権利などの条件は何も無く、つまり私が社交的に振舞い続けるだけで、こちらの条件は呑む用意があるのだろう。謀略が付きもののこの界隈で破格に違いなかった。
 母は蓼丸マレの存在を知らない。私がこの箱入り娘を断ることも可能だろうが、条件を聞いた上となると理由を言わないわけにはいかない。私や法月家が差し出すものは何も無いのになぜ断るのかと尋ねられれば、マレを手放すことになるから、なんて、言えるわけがない。ジュネとこの女をさまざまな視点から比較して、天秤にかけて、どう考えても、絶対に、私自身への興味がないジュネのほうが良いと結論付けた。そもそもジュネにはプリズムクイーンというこれ以上なく素晴らしい実績があり、ファッションブランドも手掛けていて、この法月家の伝統からいくらか外れたところがあったとしても許される実力がある。実際の婚姻関係の外で聖を愛していたとしても、子供を産んでくれさえすれば全く構わないし、本人の事情を鑑みればマレのことをどうこう言うわけも無いだろう。必要な場では法月家の者として最低限振舞うことを契約して、あとは自由にしていいとすればジュネからしても悪い条件ではないはずだ。母がどのような手段で天羽ジュネを縁談の席に着かせるのかは不明だが、もし私が提示する以上の利がなければ承諾しかねるとのことなら、氷室聖が主宰を務めるエーデルローズの負債をいくらか負担してやってもいい。その程度でこの問題が綺麗に片付くなら安いものだろう。

 帰ってきたジョージとマレはどこか気分が良さそうにしていて、上手く運んだことがわかった。総帥室、頭上高くに位置付けた椅子から二人を見下ろして報告を促す。
「ジョージがね、すごいの! 仁さんがしなさいって言ったことすごい上手に説明して、みんな納得してたあ」
 マレがびよびよと跳ねながら褒め称えるのを、ジョージは自慢げな顔で頷きながら「そうそう」「そーなんですよ、そーすいッ!」と大袈裟に肯定していた。
「そーすいが決まってるって言ってたカイシャはぜぇ~んぶアイツらにもオッケーさせたしぃ、YMT全員が如月ルヰクンのことソンケーしてるからみ~んなステージに立ちたくて、人数的にこっちの尺が長くなるのはしゃーないってのもオッケーもらいましたぁ!」
 ジョージが指折り数えながら、私の指示通りにした事をふざけた口調で報告しているのを、マレもまた「そーそー」「がんばった~」と合いの手を入れて持ち上げていた。その騒がしさに、相手をしたであろう面々に多少の同情心が湧く。
「料理はやっぱり向こうが用意することになったんだけど、会場の規模が想定外だったみたいでね、量が大変だから、メニューとレシピの指定をしたら仁さんのほうで食材調達といっぱい調理はできないかな~って聞いてた!」
「可能です」
 やった~とゆるゆるした声で喜んでから、マレは手元の資料に何かを書き込んだ。この子は普段の様子から想像するよりもマメなところがあり、私はその性質を少し好ましく思っている。資料全てをマレが持っていて、ジョージは身軽なのを見るにこまごまとした雑用をきちんと担当したらしい。後で褒めてやろうと思った。
「内装とか演出とかスケジュールとか、アイツらに決めてもらうことでまだ固まってないのは後日ってことになっててぇ……あでも! 衣装案はあのちっこいのがたぁ〜くさん描いたっつって持たされましたよォ」
 一条シンの友人――セプテントリオンのメンバーに〝ちっこいの〟は二人居たような気がするが、ジョージはその個人が誰かを特に重視していないのだろう、名前を覚える気も無いといった様子でマレを「あれ出せって」とつついていた。
「ちっこいのじゃなくて西園寺レオくんだよ、も~」
 マレの出したスケッチブックを受け取ったジョージが片手で頭上に掲げながら「でもまだ具体的なのはこれだけでぇす」と腕を揺らした。高度を下げて受け取り脇に置く。
「次回の予定は決めたか?」
「ううん! 仁さんに聞いてから連絡するねって言ってあるよ。あんまり忙しくないみたいでいつでもよさそだった~」
 お気楽な連中だなと氷室聖のボヤボヤした顔が浮かびかけて追い払った。
「あのぉ~……」ジョージが気まずそうに言葉を伸ばして私とマレの視線を集めてから「ボクこのプロジェクトって最後まで参加決定ですかぁ……? ジョージくんはちょーっと忙しいなっていうかぁ~……」とわざとらしく手帳に顔を埋めながら主張した。「あとはプリズムショーだけで参加できたらイイナっていうかぁ~」確かに、今回だけで要望を概ね通させたようだし後はマレだけでも充分だろうと思うと、今度はマレのほうから不満げな声が聞こえた。
「えー! ぼく今日めっちゃ楽しかったよ、次回ジョージは一緒に来てくれないの?」
「俺様はオメーと違っていそがしーのッ! ねっそーすいっ!」
「ぶー!」
「ガキか!」
 頬をぷっくりと膨らませて鼻に皺を寄せ、不満ですという顔をこれでもかと作りジョージに向けていた。こういう振る舞いは私相手にはしないので新鮮だなと思いつつ、名前を呼んで制せばマレは「はぁい」と大人しく返事をして私に向き直った。
「ジョージは一度外す。ただし、マレ一人でもし交渉に行き詰まったら今日のようにしなさい」
「わかった!」
 にっぱりと笑って大きく頷いたマレと対照的にジョージはむっすりとした顔でマレを見ていたので「ジョージ」と睨みつけると、パッと笑顔を作って媚びた声で「はぁ~いッ!」と語尾を跳ね上げた。
「ジョージ、お前はソロでこちらのスタァの中ではトリになる。さまざまな業界の重役も招待するし世間へ向けて配信もされる。この舞台を最大限活かすようレッスンにもきっちり励むように」
 お前の立場はこうだと念を押してやると、やっと好ましい覚悟の決まった顔つきになって、今日初めての必死さの滲んだ「はいッ!!」を聞いた。

 婚姻に関する考え事がまとまった安堵からか、マレ曰く私は「いつも通りに戻った」らしい。別にあれしきのことは常に考えていると思うのだが、間接的とはいえマレ本人に関係のあることだからか無意識に態度に出ていたようだった。夕食の席でマレが嬉しそうに話す「ほんとにジョージすごかったよ~、交渉術めっちゃある! プレゼン力かな?」などの高田馬場ジョージの活躍をあれこれと聞き「マレもきちんと小間使いを全うしていましたね」と褒めてやると、ふにゃへにゃな顔をして「ふゃへへふ」と変な笑い息を漏らしていた。
 夜景を眺めながら就寝前最後の入浴をした。ゆっくりと肩まで湯船に沈めてしばらく寛いでいると、マレが「仁さんとさ~……」と言ったきり、静かになってしまった。言葉を選んでいるようだった。
「仁さんとさ、もし結婚式したらね、どんな感じになるのかなって……今日ずっと考えてた」
 たったそれだけの、ほんの我儘にも満たないことを、私のことを思いやってどう言うべきか、言ってもいいのかと悩むらしい。
「あれこれ手配しながら、私も少し思いましたよ」
 同じだと伝えると、マレは火照った頬をもっと赤くして嬉しそうににやけた。
「でもこんなに大袈裟なのは嫌だ」
「あは。ちょっとわかるかも」
 にやけた顔のまま、いつも困っている眉をさらに下げてそう言ってから、マレは浴槽の縁で組んだ腕の上に顎を乗せ、遠くのビル群をぼんやりと見た。
「シンくん、すごくたくさんの人が関わるって実感して緊張してて、そうだよねえって思ったよ。でもジョージがね、『お前あの如月ルヰと一緒になるんだろーが! そーすいにここまで祝福されることを誇れねーでどうすンだよ』って、言ってて……」
 むうと口を噤んで、顔を腕の中に伏せてしまった。
「いいなあって、思っちゃった……」
 恥じ入るように小さな声だった。いけないことをしたのだと懺悔するようですらあった。
「……おおごとにしているのは、母の家の関係が大きいですよ」
「ん……」
 マレの後頭部を撫でた。跳ねた髪が指の間をくすぐる。感触が新鮮な間に次の言葉を閃けたら良かったが、何も浮かばず、沈黙になった。そのまま頭に手を置いているとマレは少し首を上げて、普段から顔の半分ほどを覆っている長い前髪の間から私を見やり「ルヰとシンくん、喜んでくれるといいね」と笑うように目を細めた。
 それからベッドに入るまで、私の縁談に関するあれこれをマレに伝えるべきか悩んでいた。これまでは思案するまでもなく伝えない選択をとっていたが、万が一私の想定以上のおおごと・・・・になってしまった場合、マレはずんずんと悪い方に物を考えそうでもある。否、それは現時点の不確定情報を伝えたとて同じだと思われるし、だからこそ内密に済ませてしまおう、マレが思い悩んでも仕方のないことで不安を抱く必要はないだろうと考えていたのだが……今回ばかりはタイミングが悪いのかもしれない。マレが私の家に歓迎されないこと、私たちの関係は誰にも祝福されないことをより強く自覚してしまうかもしれない。何もかもを明け透けにするのが誠実だとは決して思わないが、この状況でのこの件についてはどうだろう。
 寝室で横になって消灯しマレがいつも通りおやすみと言って、迷った末、私は挨拶を返さずに会話を切り出した。
「話しておきたいことが、あって」
「うん?」
 今日は抱かれるように眠りたかった様子のマレは、私の胸にひっついていた顔を上げて目を合わせた。マレには私の頭を抱き込むように枕になりたがる時もあれば、控えめに手を繋いだり、こうして私に包まれたがったり、基準を知りようもないがとにかく眠る姿勢にこだわりがあるらしい。よくはわからないが好きなようにさせている。マレを見下ろしながら「不安にさせるかもしれないのですが」と前置きをした。
「私に、その……縁談が来ていて」
「えんだん」
「結婚を、するかもしれません」
 マレが感情のわからない表情でじっと停止したので、私たちはしばらくただ見つめ合った。それからマレは私と唇をほんの少し触れ合わせてから「大丈夫だよ」と言った。
「仁さんがやりたいように、したいことをして」
 僕はそれが何だとしても仁さんの味方だよ、と微笑んだきり、額を私の胸に擦り付けてそのまま眠ってしまった。強がりだったのかもしれないが、言葉の奥にあるものを私は掴めなかった。

 エーデルローズとの企画進行は滞りなく進んでいた。ジョージが出る必要も無く、マレが上手くやっていた。毎夜報告をして、私の指示を仰ぐべき事項の確認と、私から受け取ったカタログや参考資料をまとめて翌日に備えている。会議がどう盛り上がったとか、これをどうするかで意見が割れただとか、やいのやいのと随分賑やかにしているらしい。マレはどこか楽しそうで当日を心待ちにしているようだった。
 縁談については、私が話さない限りマレから口にはしなかった。私は少しずつ、近々ジュネと会うこと、縁談が上手くまとまるよう動くつもりでいることといった主に予定についてを説明した。反応としては当然だが「うん」「わかった」と淡々としたもので、それ以上の詳細――例えば私の心情だとか、意図を尋ねられることも無かった。これまでと違う業務に伴う変則的な忙しさと、普段は私の付き人として仕事でも一緒にいる時間が多かったものだから、憩いの機会が減ったことによる疲れや寂しさからくる甘えの時間は増えたように思うが、それ以外の点で特に変化らしいものは無かった。マレは心の底から私の婚姻について口を出す気が無いのだろう。
 マレの望みは理解している。あの子はとにかく私を失うのが怖くて、孤独にしないためにとなるべく近くに居たがる。かつて「家族になりたい」のだと請われて、私は了承した。
 家族とは難しい概念だ。マレが求めているのは「物理的にも心理的にも一番近くにいる人」の意味が近い。何かを尋ねたり、願ったり、望むことが一番に許される関係。その人の持つあらゆる側面のより多くを知ることが許された人物。私にとっての家族とは大きくかけ離れたものだったが、拙い言葉で一生懸命紡がれたその解釈を私は否定しなかった。では、私にとっての家族とは何かというと、同じ家系についての継続と繁栄の責任を持ち、尽力する義務のある血縁者である。家と血の呪縛とも言えるそれにマレを迎え入れるつもりは無く、マレの定義する家族という関係にのみ存分に応えようと承諾した。故に私の解釈について詳らかにしたことは無いが、実際のところマレも理解していただろう。法月邸や有栖之園邸に出入りする際には――かつては客人として招いたこともあったが、深い関係になってからは付き人としての態度を徹底させていて、それについて疑問を呈されたことも無い。そして時折、マレの定義する家族になれているかと確認すると決まって、嬉しそうに肯定した。つまり私が実際に誰と籍を入れようが、子を作ろうが、マレとの関係に影響さえ無ければ問題にはならない。
 間違えないように、その日が来るまで何度も思考した。何を言うべきで何を秘匿すべきなのか、ジュネを説得するためにどうアプローチをかけるべきか。ぼんやりとしたマレのとりとめのない話を聞きながら、この時間を失わないための最善を検討する日々だった。
 連絡は月をまたぐ前に来た。あくまで個人間の話になるためか提示された日は近く、事前に備えていて正解だったとほっとする。世はすっかり陽春が訪れて、マレには花粉の影響か鼻をかんだり目を擦る仕草が増えた。寒さを見せない暖かな気温が続き、いっそう清々しく晴れた日に、天羽ジュネは我がシュワルツローズにやってきた。
 先日ルヰが座ったのと同じ席に浅く腰掛けたジュネは、秘書が紅茶を出して退室するまで、瞳を閉じて微動だにしなかった。私は向かいに深く座り、淹れたての香りを確認してから一口飲む。
「優雅な香りだろう? 王室でも愛飲されるブレンドティーを今日のために選ばせた」
 そっと瞼をあげたジュネは、視線をティーカップにほんの少し向けてすぐに私を見た。刺すように冷たい視線だった。
「……好みではなかったか」
「私、どうしてここにいるのかしら」
 私の言葉など聞こえていないと言うように淀みない声だった。その漠然とした疑問に思い出すのは、母の執事がただ「氷室聖と話をつけた」と言っていたこと。ジュネがどこまで理解しているのかすぐには推し測れず、私は言葉を返すことができなかった。
「聖が私に何度もすまないと言ったわ。そしてあなたと会うようにと」
「何も言わなかったのか」
「聖は私に嘘を言わない。本当に知らないの」
 私はどうしてここにいるの、と再び同じ問いを受けて、私は深く息を吐いた。ジュネの責めるような視線は苦手だ。
「聖がどんな条件を提示されたのかは私も知らない。だがそれはおそらく私の母の判断だから、ジュネが途中で席を外さないことを約束するならすぐにでも解消するように連絡を入れてもいい」
「何を求めるというの」
「話すだけだ。……私との婚姻について」
 見開かれた目が驚きを示していた。何度もその意思は示していたため、何に驚いたのか初めはわからなかった。ジュネはしばし逡巡して、やがて小さく頷いたので、私はすぐに電話をかけて母の執事に伝えた。やはり事業について少々乱暴な、脅しに類する手段をとっていたらしい。白紙に戻すように伝えるとすんなりと通ったので、母直々の指示ではなく部下の独断だったのかもしれない。
「話はつけた。信じられないなら聖に連絡をとりなさい」
 返事は無かったが、動かない様子を見るとその気も無いようだった。
「君の答えが現時点でノーであることはわかっているが、まずは詳細を聞いてもらう」
「愛する人がいるのに、なぜ?」
 相変わらず私の言葉を無視した彼女のペースだったが、今度はその小さな頭を軽く傾げて、先程よりも幾分か和らいだ目で私をまっすぐ見ていた。愛する人、の言葉にマレの顔が浮かんだが、あの子と彼女にこの場で言及されるほどの私的な関わりがあっただろうかと思う。ジュネはそもそもマレを知っているのか?
「そう、彼」
 すべてを見透かすような振る舞いは、この世でいっとう美しいルヰとジュネの共通点だ。私はなにも言わず、表情にも細心の注意を払っていたのに、ジュネは思考を読み取った。
「ジュネに求めるのは、法月家の人間として最低限、必要な場に顔を出してただそこに居ることと、私の子をひとり産むことです。それ以外は何もいらない、自由に聖と愛し合えばいい」
 眉のひとつも動かなかったので、ジュネがこの条件についてどう思ったのか私には理解できなかった。そしてまだ彼女の問いに答えていないことに気付く。私は慎重に言葉を選んだ。
「……あの子には、何も、背負わせたくない」
 ジュネは口を開かない。
「呑んでくれるなら、ジュネが望むことをしよう。エーデルローズや聖についての対応を変えてもいい。俺はただ形式的に婚姻を結び、母や本家が望む最低限の振る舞いと跡継ぎを産んでほしいだけだ。共に過ごす必要もない」
 ジュネはただ、私を見つめるだけ。
「……他の女では駄目なんです。あの子のことに口を出されたら、断る術を私は持たないから」
 あの子がそばに居ても良い理由を私は用意できないから。全てを見透かす目が私を捉えたきり離さない。言葉を紡ぐごとにどんどん居心地が悪くなって、私はついに目を逸らした。それでもジュネはじっと私を見ていたと思う。
「ジュネは俺の心が向かなくてもどうでもいいだろう? そしてあの子の健気な愛情を軽んじたりもしない。君しかいない」
 一度逸らしてしまうと、再び目を合わせる勇気は出なかった。私の視線は少しずつ下を向いて、その沈黙の長さが重さに変わったように、いつの間にか頭を下げていた。もう私には提示できる理由は無かった。ジュネが何を考えどんな言葉を求めているのか、何もわからなかったので、私は最後に一言「……頼む」と絞り出した。
 重たい沈黙だった。自分の心臓の音だけがうるさい中で、少しでも落ち着かせたくてジュネが息を吸う音に意識を向けた。
「結婚はしないわ。私はあなたを愛していないもの」
 顔を上げることはできなかった。
「子供は、愛の結晶よ。心から愛し合えないのに生まれないわ」
「……違う。ただの細胞融合だ」
「自分を増やしたいの?」
 自分を増やしたいかだと?
「可哀想な子供を」
 紅茶の水面が揺れたと思った。次の瞬間、机に叩き付けた右手の痛さと、ぽたぽたと雫をこぼすジュネの前髪、左手が鷲掴んだティーカップを認識して、私が揺らしたのだと悟る。ジュネの変わらぬ表情を見て、自分の呼吸が荒くなっていることに遅れて気が付いて、深呼吸をした。何度も。
「まだ『途中』かしら」
 涼しげな声が憎かった。必死に呼吸を整えながら、扉の外に待機している部下に「拭くものを」と、半ば叫ぶように伝えた。ジュネがタオルを受け取って、軽く叩くように顔と髪を拭くのを横目に「着替えと、浴室に案内を」と指示すると、ジュネは「必要ないわ」と部下に笑いかけた。
「そんな姿でこのフロアを出すわけにはいかない。……私は戻りませんが、入浴が終わるまでを今回とします」
 返事を待たず速足で部屋を出た。自室に戻るエレベーターの中で、今日もエーデルローズに赴いているマレに「今していることを全てやめてうちに帰ってこい」と送り付けた。送信が完了して、一拍おいて既読の印がつくのを見届けてから電源を落とす。もう誰のことも考えたくなかった。

 到着するなり服を脱ぎ捨てて、白いシャツと下着と靴下だけになってソファにうつ伏せた。シャツガーターとソックスガーターを外すのも億劫で、腕を投げ出して脱力した。このまま沈んでしまいそうに錯覚し始めた頃に、玄関からどたばたと荒っぽい音が聴こえた。音がだんだん近付くのと同時に、仁さん、仁さんとマレの声もした。廊下に脱ぎ捨てられた服を見て驚いたのだろうなと、くくくと笑いが喉にのぼってきた。リビングの扉が開く音と同時に、いた~!とマレの大袈裟にほっとした声を聴いた。私がソファを占領していたので、マレは床に座り込んで私の髪に触れた。
「仁さん、遅くなってごめんね、ただいま」
 顔をソファに押し付けたまま、手探りでマレの服を掴んで引っ張ると、マレはすぐに意図を把握して「なあに」と耳を寄せた。
「……はずして」
 くぐもったとても聞こえにくい声だったろうに、マレは私の頭を二回、大きく撫でてから金具を外して、陶器に触れるような繊細さで私の脚を軽く持ち上げて縛り付けていたガーターベルトを全て抜きとった。
「ね、仁さん、ぼくどーしてもちゅーしたい」
「……」
 仕方がないな、と全身で言うように、いかにも億劫そうに、緩慢に寝返りをしてやった。マレは私の乱れた前髪を丁寧に除けて顔を覗き込むと、安心したように微笑んでからぷちゅと子供みたいなキスをした。こんなことで私は泣かないというのに、マレは何かとすぐに涙を確認しようとする。眉を寄せて不機嫌を示すと、だってえ……と照れ笑いを返された。
「お風呂いく?」
 私にとって入浴が特別な癒しであることをよく知っている故の提案だったが、私は首を振る代わりに両腕でマレの頭を抱きしめた。え~、なにー?とどこか嬉しそうな声にも応えずにただ動かずいると、マレは徐々に静かになって、慎重に上半身をこの胸へ預け、背中に腕を回してそうっと抱き返した。
「うまく、いかなかった」
 聞こえなければいいと思う気持ちが声に乗るのをわかっていたので、耳に直接吹き込むようにそう言った。マレはぎゅうぎゅうと私を抱く力を強めて、そっか、と返事をした。
「僕たちさよならになる?」
「……わからない」
 お互いに、唇が耳に触れるほどの距離で、誰にも聞かれたくない話をした。
「お前が俺の子を産んだらいいのに」
「え~、やだあ」
 そうか。マレでさえも即答するほどに嫌なものなのかと、ほんの少し天羽ジュネへの同情心が芽生えかけて「だって」とマレの言葉で止まった。
「ぼくねぜったい、仁さんのほうが好きなんだもん。一生独り占めしてたい」
 仁さんは面倒見がいいから、ぼくより子供のこと好きになっちゃいそう、そしたら寂しくておかしくなっちゃうよ……マレのする知らない人間の話を遠くで聴きながらぼんやりと天井を見上げた。蓼丸マレはとうにほんの少しおかしい人間なのだと思う。
「それに、子供ってなるべく両親にいちばん愛されていてほしいから……僕の子供は絶対に仁さんの次になっちゃって、かわいそう」
 急に音が明瞭になって、脳が勝手にその言葉を反芻した。じんわりと視界が滲む。これはどういう回路を通って生成されるのだろう。
「仁さ……わ、えっ」
 私の返事が無いことを訝しんで体を起こしたマレが驚くのも無理はない。私でさえどうして泣いているのか理解ができなかった。
「子を愛せない私には子供を作る権利が無いなら、どうやって義務を果たしたらいいんだろう」
 ジュネの言葉には怒りが湧いたのに、マレのそれには縋ってしまいたくなった。不思議な言葉だと思う。
「『可哀想』な僕は、どうすればよかったんですか」
 溢れてくる涙が止まればいいと瞼をおろした。マレの顔が見えないのは嫌だが、泣いていたらどうせよく見えないのだから、仕方なかった。
 体温が離れて行くのを感じて、考える前に腕を伸ばしてしまう。間を置かずにマレは私の手をとって、ぐっと身体を起こさせた。よいしょ、と声に出しながら、私はどうやらマレの膝に乗せられて、横抱きにされたらしい。ふわふわの跳ねた髪に頬をくすぐられながら、濡れた頬のままその首筋に顔を埋めた。
「こども、つくれない人だったって言ったら、ジュネさんじゃなくてもいいよって、ならないかなあ」
「ふ、おまえ、ひどい」
 ふふ、と肩を揺らして笑う。本当に、手段を選ばないでひどいことを言う。私のために。
「でも、だめです。そうなったら次は、この関係を許さない箱入り娘が……私の愛を独占するのは当然といった顔でここを闊歩しますよ」
「や、やだ~!」
 笑いが止まらない。ふはは、ははとマレの首に抱き着いたまま堪らず笑い続けた。
「ははは、ああ……」
 生まれた意味というものは、大抵の人間には不明瞭だったり、初めから無かったりするらしい。私は恵まれたことにこれ以上なくはっきりとしている。むしろ生まれる前から……そもそもあの一切愛し合ったことのない父と母が、想像するだけで吐き気のする『嫌な相手との性行為』を企て実行した理由こそが、私が生まれた意味であり役割であり、義務だ。果たせないのなら生きている資格が無いし、これまでの人生の全てが無駄になってしまう。父と母の人生さえも台無しにしてしまう。法月仁を失格になる。
 それでも、マレがそばにいるならそれもいいのかもしれないと思える……気がする。投げ出して生きるところは想像ができないから、深く考えるまでも無く、それは死に等しいのだろう。知らないことは空想もままならない。いまこの瞬間に私は死んでしまいたかった。死が、現時点で私の脳に理解できる最大限の幸福だった。
 目元を指で拭ってマレを見た。この子にとっては違う。マレの最大限の幸福は、私と共にいつまでも生きることだ。
 私は蓼丸マレに幸せでいてほしい。
「本当に、どうしたら……いいんだろうな」
「ん~……」
 一生懸命に何かを考えているマレを好ましいと思った。この子には私と生きる未来が空想できるのだろうか。
「ねえ仁さん、ぼくとちゃんと結婚してさ、跡継ぎはなんか……ヒロさんみたいに育てるんじゃだめなの」
「だめ、だめです」
 鼻先をマレの首筋に擦り寄せながら首を横に振ると、マレはくすぐったそうに肩をすくめて「なんでえ」と笑みの滲んだ声を出した。
「母が許さないですよ」
 顔を伏せたままそう言うと、マレはちり紙を手に取って私の顔に近付けるので、大人しく涙を拭かれるために顔を上げた。マレは私の世話をするのが楽しくて仕方ないといった顔で微笑んでいた。
「そしたらね、仁さんの人生のこと、仁さんが決めて何が悪いの! って愛さんに言ったげる」
「おそろしいことを言う」
「なんで?」
 私はすぐに答えずじっとマレの眼を見た。先日までは、先の見えない憂鬱な話をすればマレはぺしゃんこに落ち込んでしまうだろうと考えていた。それがどうだろう。事態の重さは理解しているはずなのに、何も心配していないように振る舞っていて、わざとなのか、本当に何か自信があるのか検討もつかない。
「子供とは、愛の結晶だから、愛し合わないと生まれないらしいですよ」
「えー? それはちがうよぉ、精子バンクとかある」
 予想外の答えに少し面食らった。確かにそうだ。
「あ……でもあれを使う人は愛し合ってるけど子供作れない事情のカップルとか? だろうから、広い意味では『愛し合わないと生まれない』を満たしちゃうかも」
「いや、正しい。技術的には自在に受精卵を作るのが可能で、道徳的にやらないだけなのだから、先の理論は当然間違いだ」
 やった、正解したっ、と跳ねるようにご機嫌な様子ではにかんでいた。情緒的な話題として捉えなかったことが、マレの中にある秩序の片鱗に思えた。心地良かった。
「ただ、これを言った彼女――天羽ジュネの意図としては『愛がないのに生まれるべきではない』だろうな」
 はっとしてマレの表情が落ちた。自分が子供を持ちたくない理由と重なり、そしてようやく私の幼少期に思い当たったようだ。
「仁さん、」
「可哀想だと言いやがった」
「仁さんごめ」
「俺を哀れんでもいいのは」
 ごめんなさいと言おうとするのを言葉で遮る。批評家を気取った有象無象の中で、私の全てを自分事として喜び、悲しみ、愛してくれた唯一。
「お前だけです、マレ
「ふぁ……」
 みるみる赤くなっていく顔になんだかこちらが恥ずかしくなって、あとルヰも、と付け足したが、マレの照れ切った表情は緩んでいくばかりだった。
「とにかく……愛だなんだとは遠く離れたところで、本来生まれるべきではないのにも関わらず生を受けた私は、自分の役割を正しく理解しています。なぜ生まれたのかを」
 惚けた顔をじとりと睨めば、頬を赤くしたままキュッと口を結んでどうにか本題に意識を戻したようだ。全く緊張感がない様子につられて気が抜けそうになるが、なるべくなら今現在でもあまり口にしたくない私の胸中を聞かせるのだと意識すると、自然と視線が下がった。
「母と論理的な理由なく対立することは、私にとっては生きるための役割を放棄するに等しい」
 母は決して話の通じないお方ではないが、シュワルツローズ設立とこれとでは事情が違う。
「おそろしいです。とても」
 伏せた目をマレに向けることはできない。ひどい裏切りの言葉を言ったような罪悪感があった。
 マレが私にこれでもかと注ぎ続けてきた言葉にはある程度の傾向と規則性がある。好き、かっこいい、かわいいといった単純なものが多く、そのタイミングは理解できる時もあれば本当に脈絡が無い場合も多い。大抵は私の発言や行動の何かしらがきっかけになっているようだが、挙げた以外にもうひとつ、欠かすことなく言われるそれはあの子なりの強いこだわりなのだろう。マレは私の誕生日付近になると決まって「生まれてきてくれてありがとう」と言って、それ以外にも思いつくままにあれこれと甘ったるいことを言い聞かせ続ける。そしてそれはいつも――簡潔にまとめるのは実に困難だが、そう――マレは私が私であるだけでなんでもかんでも合格にするような、全く手応えの無い存在なのだと、私の無意識にまで刷り込まれるほどにたくさんの肯定の言葉だった。
 私が思うよりもずっと、マレはこの私に価値を見出している。特別であることをよく理解しているからこその罪悪感だった。どれほどに悲しそうな顔をしているか、この目で確かめることを躊躇った。今まではマレに与えられるその溢れんばかりの賛辞の言葉を否定せず、お前にとってはそうなのだなと認める反応を示していたが、今回は明確に「私はそう思わない」と意思表示したことになる。
「……教えてくれて、ありがと」
 そんなことないよと、言うのだろうと思っていた。
「こんなに大事な、個人的なこと、打ち明けてくれてうれしい」
 寂しいこと言わないでと、悲しむだろうと思っていた。
「仁さんが悩んでること、僕も一緒に悩める」
 額と額が触れ合う。無理に目を合わさない、慎重なぬくもりが広がって心地良かった。
「……悲しくないですか」
「悲しいよ」
 でも、独りきりで苦しませたり、それを知らないでいるよりずっといいよ。私とマレの間に落ちた影の中に、穏やかな声と一緒に雫がぽたぽたと吸い込まれていくのを見て、愚問だったと気が付く。
「仁さん、大好き。誰よりも何よりも一番好き」
「うん」
 視線をそっと上げると、濡れて零れ落ちそうな空色と目が合った。マレの瞳に宿ったシアンが好きだ。
「ぼくねえ、もういっこしか思いつくこと、ないや」
 鼻先を擦り合わせてから「なに」と先を促す。一生懸命に考えたのだから、たとえ通常なら苛立ちをおぼえるほどに自滅的な……自分が身を引けばいいようなことを言ったとしても、ご褒美のキスをあげようと思っていた。
「あのね……、ぼくがね、愛さんと仲良しになるの」
 なれるようにがんばってみるの、マレは気恥ずかしそうにそう言って笑い、あと数センチのところにあった私の唇へ、ついでみたいに軽くちゅっと触れてから離れた。
 仲良しになれるよう頑張ってみる?
「母と、さ、再婚……婿入りするという意味ですか」
「なんで!? ちがうよ! そんな隠語みたいな……」
 マレは片手で顔を覆ってとても堪えきれないといった様子でしばらく大笑いして「ちがくて、ふつうに、ともだちみたいに、あは、あははっ!」とどうにか言葉を紡いだ。
「母の友人になろうと?」
「うん、うんっ……いひひ、ふう……ふふっ」
 深く吸って、吐いてと、呼吸を整えるのを静かに待った。どちらにせよ趣旨が掴めないことに違いはないからだ。
「そしたら僕ならいいよってなるかもしれないし……ならなくても、お話しできたら……何か別の案が浮かぶかも」
 能天気すぎる前者はともかく、本命は後者だろう。母の前でそうのんきに発言できない私に代わって探りを入れるなど、殊勝なことを言うものだと感心した。しかし私は顔をしかめるしかない。まだこの子に話していないもうひとつの懸念点が、その方法ではより大きくなってしまう。
「……いやです」
「そうなの?」
 思ったよりも駄々をこねるような、拗ねたような声色になってしまった自覚があった。マレもそう捉えたようで、合理的理由からの反対ではなく私の心情から来るものだと解釈したような……つまりなだめるような態度で私の顔を覗き込んできた。この話もなるべくならしたくなかった。
「……お前に傷が付く」
「ええ? 仁さんのためになるのに傷付いたりしないよ」
 本心から遠いところに結んだ言葉は、簡単に言い訳として処理されてしまった。普段は本当に、マレはあほで、簡単に騙される御しやすいやつなのに、時折妙に勘の良い時がある。この時ばかりは苛立たしかった。
「母をどんな人物か知らないだろ」
「仁さんより厳しくて、仁さんよりひどいこと言う人でも平気だよ」
「お前は母が許すような人間じゃない」
「ちゃんとした振る舞いの練習するよ」
「それが嫌だ」
 マレが私に対して譲らず、しつこく口答えをするのは実に珍しいことだ。即席の言い訳ではとても納得できないらしく、応酬の末にあったのは疑問の表情だった。なぜ自分が「ちゃんとする」のが嫌なのか、聞くまで終わりにはしないといった目で見てくるので、私はとても言いたくなかった話をしなければならない。
マレが、私の家へ受け入れられるような人間に、変容してしまうのが嫌だ」
 今度は、絶句だったと思う。私の言葉を咀嚼して、その意味するところを理解した上で言葉を失っていた。しかし私はそれに気付かず、納得させるために、口答えさせないために、ここまで言ってしまったなら同じことだと言葉を続けた。
「どんなに厳しい視線が四六時中、数え切れないほど注がれるか知らないから簡単に言えるんですよ。何を背負うことになるのか理解してないだろ。お前に耐えられるわけがない。そんな環境に置きたくない。俺と何一つ交わらない世界で生まれ育ったからお前はマレなのであって、それを損なわせたくない」
 私がこれを言いたくなかったのは単純に気恥ずかしかったからだ。マレを庇護したいだとか、そのまま何もかもを好んでいるだとか……そう捉えかねない甘ったるい部分を晒すのが嫌だった。言葉にした時の印象とは違って実際に感じているものとしてはもっと、ただ当たり前にすでにそう在るものを無理に動かしたくないだとか、そういう保守的な感覚だったし、それで優しいだとかなんだとか過剰な評価を受けるのも嫌だった。
 見つめ合ったまま、マレが何も言わないので私はじわじわと居心地が悪くなり、再びその肩にもたれて顔を伏せた。早く「わかった」と言え、と思っていると、マレはようやく脳内処理が終わったように小さな声で話し始めた。
「それ、それって……」
 その震えた声を聴いてやっと何か、私の意図したところと違うのに気が付く。
「仁さんは最初から、僕とちゃんと結婚する気も……」
 大きな勘違いをしていたことに、気が付く。
「家族に、してくれる気も、無かったの?」
 シュワルツローズに呼び寄せる前から、卒業後のことを考えていた。関係の呼称や実態に関わらず、蓼丸マレは私のそばを離れたくないだろうと理解していたからだ。マレは努力が下手ないきものだから、私から離れたくないと望んだとして、自力で実現させることは困難だろうと思った。勉学は苦手ではないようだから進学することも可能だろうし、それなら寮の契約期間の延長で済む。しかし成績に関わらず競争や試験そのものが苦手な性質で、受験を避ける可能性もあった。その場合は、働かせたことが無いので実力はわからないが、少し準備すれば雑用でも小間使いでもなんでも居場所を与えられる。ねだられるまま恋人になり、触れさせて、好きなようにさせていたら、私の部屋に入り浸るのでもう一緒に住んでしまうのが楽だろうと思い当たった。本人が進路について口にしたらその内容によっては臨機応変に提案しようと用意して、教師にも根回ししておいたのに、マレはずっと曖昧な態度で誰にも何も言わなかった。しびれを切らしそうになった矢先、ようやく私に漏らしたのは「何も決まってない」などと、最も都合のいい言葉だった。私が用意していたあれこれを明かすとマレは心底嬉しそうにして、甘ったるい言葉をたくさん言ってから「僕と家族になってくれる?」と、恋人の、その次の関係に名前を付けた。
 それまでも、そのあとも、一度だってねだられたことは無かった。法月や有栖之園の世界に順応することは無理だと理解していると思った。はなから望んでいないと思っていた。
マレ
「ごめん、ちがうの、ぼく」
 私の背に回していた腕を除けてマレは両手で顔を覆った。それでも止まらない大粒の涙を隠してしまいたいように身動ぎをして、席を立とうとするから、私は膝に乗り上げたまま両腕でぎゅうと抱きしめて制した。
「ぼく、かんちがいして、うぬぼれてた、ごめん」
 離してと言うのを無視して、再び名前を呼んだ。
「好きなようにしていい」
「仁さんが望まないことはしたくない」
「母の使用人のチームに入れるよう手配する、期限を設けて、私の付き人としての研修のような名目で」
「やめて!」
 怒ったように荒げた声を初めて聴いた。片手で顔を覆ったまま私の腕を解こうとするので、もっと強く力を込めた。
マレ
「いや!」
マレ!」
 ようやく動きを止めたと思えば再び両手で顔を覆い俯いて、今度は何の反応も示さなくなってしまう。私の怒鳴り声に委縮しているのだろうと、マレの気分が落ち着くまで待つことにした。すんすんと泣いている音をマレの髪に頬を寄せて聴いた。何も言わないので、頭ひとつぶんの重さをそのまま預けて目を閉じた。マレがこの沈黙の間何を考えていたのか、それとも涙をおさめるのに必死だったのか見当もつかないが、私は漫然とただ、この子もあんな風に声を荒げることがあるのだなと思っていた。少ししてから「……ごめんなさい……」と震えた声の謝罪があって、私が緩慢に瞼をあげる間に「大きな声、出して……」と続いた。
「構わない。話せますか」
 首を横に振って否定したあとに「もう、喧嘩、したくない」とマレは言った。喧嘩の定義に相違がありそうだと、またひとつ私には無い感性を発見する。話す必要があることに変わりは無く、方法や切り口を一考するべきなのかもしれないと考えていただけなのだが、その間を無言の肯定だと受け取ったマレはパッと顔を上げて切り替えたと言わんばかりに「お風呂行こっか」と微笑みを作ってみせた。
 中途半端に脱いだ服を上にあがるためだけに整える気になれず、そのまま脱いでしまえる居住スペースのジャグジーに向かう。脱衣所でマレが「脱がせてあげる?」と楽しそうに言うので好きなようにさせて、シャツのボタンが丁寧に外されるのを見下ろした。にこにこと機嫌が良さそうな顔と性的な意図を一切感じさせない手つきを眺めながら、このぬるま湯のような男も声を荒げるのだなと、ただそればかりが頭にあった。私は本当に驚いたらしい。そもそも強い拒否をこの子からされたことが無かったのだ。私の声や言葉を全て聴くのが好きでたまらないくせに、言われたくないからと遮り、封じ、忘れてしまいたいのだと言うように振舞っていた。自分が傷付かないように、私を傷付けないようにと丁寧に境界線を引くマレの習性を知ってはいたが、その瞬間を明確に目の当たりにしたのは初めてだった。踏み込んではいけない芝生に足先をつけてしまって、自覚した瞬間に茂みへと身を隠してしまった子供のようだと思う。面倒だと思う。ならば捕まえて引きずり出してしまえばいいのに、そうする気にはなれなかった。
 湯船に全身を浸してしばらく、マレはいつもの饒舌さを忘れたように、ぽつぽつとへたくそな雑談を投げかけては、私の薄い反応に心が折れたように黙るのを繰り返していた。……弁明しておくが、私は普段からマレのあほな話題にはこのくらいの口数で返しており、マレ自身も普段なら私の反応などあるだけでなんでも嬉しい様子で、全く気にせずよく喋っている。
「あのう、そのう……怒ってる? ごめんね……」
 つまり私たちは普段なら、互いの間にある沈黙が全く苦手ではないが、この時のマレは大変に気まずい様子だった。朗らかな雰囲気を創り出そうとする表情や話題に興味関心を持たず、目の前のマレ本人から気を散らせていた私にも非があるといえばあるのだろうが、どうやら私は不機嫌だと思われたらしい。
「いや」
 明確に否定したというのに、不安そうな表情に変化は無かった。
「……喧嘩、ではないだろうと思っていただけです」
「んあ」
「少なくとも私は、お前の言い分を聞く気がありますよ」
「ん〜、んんん……」
 仕方なく胸の内を丁寧に明かしてやったが、マレはこの話をしたくないのだという気持ちを隠そうともせずに、顔をしかめて唸っていた。
「ぼく、なんていうか、怒るのイヤかも。怒りの感情になってる自分がイヤ……」
 鼻に皺を寄せて唸るような声をそのままに絞り出された言葉に、目が少し丸くなった。
「怒っていたんですか。あれがマレの自己嫌悪するほどの怒り?」
「それ以外になにに見えたの!」
「……抵抗?」
 声を荒げていたのだから怒りといえば怒りなのかもしれないと内心納得していると、マレマレで「抵抗……たしかに……?」と私の言葉に納得しかけていた。ちょろい奴だ。
「つまり、お前は俺に怒ったんだろう? 抵抗にせよ怒りにせよ、私に対する反発を遠慮することは無いんですよ」
「う……、うう~!」
 顔をくしゃくしゃにして、やはり嫌なのだと訴えるように唸るマレを、頬杖をついて眺めた。
 確かに今回のような激情はそう目にしないが、マレは特別怒りに欠けた人間ではないように思う。頬をぷうぷうと膨らませて不満を表したり、感情の読めない表情で軽蔑の眼差しを向けていることもある。しかし負の感情を強く否定している様子は記憶の限り一度も無い。本人の言う「怒りの感情になってる自分がイヤ」とは、少し違うのではないかと考えた。声を荒げるのが嫌ならこうして落ち着いて話せば良いだろうと、努めて柔らかくマレの言葉を促したが、やはり応えない。これまで目にした怒りと今回と何が違うのだろうと思考しながら、うんうんと小さく唸って水面を中から混ぜるマレの指先を目で追った。
「……私に反発心を持つこと自体が嫌なのか?」
「うあ、そう、かも」
 気まずそうにパチャパチャと手のひらでお湯を叩いてから、マレは言った。
「仁さんの望む通りにしてたいから、それと違う僕の考えが尊重されるの、嫌かも」
「だとしたら、それは勘違いです。私はそもそもお前が……」
 お前が言わないから。法月に籍を入れたいだとかといった、立場や契約を望まないから、だから私はそれが蓼丸マレなのだと思い込んでいて。
「いや、」
 強く望んでいた、お前に不変であってほしいと。私と同じものを抱えたら耐えられないだろうと、失ってしまう予感ばかりがあって。
「……ただ、恐れていて……どうしたらお前を失わずに済むのか、わからないから……」
 蓼丸マレは、私が思っていたよりもずっとしたたかで、何もかもから庇護する必要は無い人間なのかもしれない。
 自分の望みというのは、こんなにも容易く見失ってしまえるものだっただろうか。
「ずっと、独りで全部解決しようと思っていました。マレはそれをわかっていたんですね」
 今日、私に弱音を吐かれるまでマレはじっと耐えていたのだ。私を信頼し、尊重するために、自身の不安に口を噤んでいた。
 私はその期待に応え損ねた。
「失望しただろう」
「しないよ」
 被せるような即答だった。わかりきっているのに口にしてしまった。許されたくてわざとそうしたのかもしれない。自嘲的に上がる口角を抑えられない。頼らないでいたから口を出さずにいてくれたのに、弱みを見せたから一緒に抱えようとしてくれたのに、私が矛盾していたせいでマレを混乱させて傷付けて、自己嫌悪させてしまったのに許させた。私はずるい人間だった。
「自分の能力を理解していない子供みたいに、ひとりでできると勇んでいたのに、嬉しかったんですよ。お前が私との未来を一生懸命に考えて……あれこれと案を出すのが」
「そうなの?」
 顔を上げてマレを見た。きょとんとしか形容できない表情は、この子が私の望みに応えんとするのが、いつも無意識のものなのだと表しているようだった。だから私に対する反発心についても鈍かったのだろう。
「話してくれませんか。マレが思い描いていた関係を」
「……でも、ぼく」
「法月になれたら、幸せですか」
 斜め下に視線を落とし、想像したらしいマレの頬がぽっぽっと染まって肯定した。
「結婚はできないかもって、最初からわかってたの……わかってたけど、でも、たとえば養子とか……なんでもよくて」
 仁さんのそばにいられたら、家族になれたらなんでもよくてと、マレはますます頬を赤らめて言う。
「でも僕ね、強欲なんだよ。仁さんの全部になる夢が消えなくて、想像すると嬉しくて……」
 熱を持った自分の頬をおさえるように、両手の指先でむにむにと揉んでから、続けた。
「だからね、ぼくのこと満足させようとか、思わなくていいんだよ。底なしできりがないから……そんな自分のわがままが叶うことより、仁さんに応えるほうがずっと幸せなんだあ」
「一番はありませんか。私の健康だとか幸せに関係の無い、マレ主体の望みの一番は」
 照れくさそうに俯いて、マレは首を掻いた。むぐむぐと唇を動かしていたが、言いにくいというよりは恥ずかしそうにして、口を開く。
「……もう叶っちゃってるけど……」
 へへへとはにかむように目を細めていた。
「ぼくね、仁さんにずーっと好かれていたい。愛されてるって、今も毎日実感してて、ほんとに幸せで……それが死ぬまで続いてほし」
 いつからか私はこの子の、こういった嬉しそうな、幸せそうな顔を見ると安心感を覚えるようになっていた。この能天気なあほが曇った表情でいると、何かどうしようもない困難に直面している気分になって居心地が悪いので、にこにこさせているほうがいい。
 私の帰る家にはマレがいて、なるべく笑顔で過ごせているといい。
「……気が抜けました」
 慌てて身を隠した動物を懐柔するように、マレを暴くように緊張していた首筋がふっと緩むのを感じる。なんだかとっくに懐にいたものを必死に探していたような滑稽さが、ふと時間感覚を思い出させたので、鎖骨の高さに手を持ち上げて、ふやけた指先を確かめるために擦り合わせた。
「あがる?」
「うん」
 ん~、と伸びをしたマレがゆっくり立ち上がるのを見てから、私もいくらか軽くなった腰をあげた。
 夕食を済ませてしまうまでの間に、それまでと比べようもないほど軽い心持ちで私とマレは今後の話をしていた。あれも嫌だこれも駄目だと否定するばかりだったものが、マレを尊重するという方向を持っただけで進路を決める。私自身が自分のためなぞにどうも動けない――動きたくなかったとしても、マレは私のために何でもしたい男なのだった。マレが母に会うのを、そして何を言うにしても、私はただ好きにしろと許可するだけで良かった。何ひとつ上手くいかなかったとして、何がマレを奪えるというのだろう。どんな肩書でもいいから私の人生に関わっていたいと言うこの子を、誰が完全に排除できるというのだろう。
 寝支度をする頃にまとまった方針は、思い返すと単純なものだった。私の代弁や代理ではなく、マレ個人の判断で好きなようにさせ、それに対する母の反応次第で次の手を考える。何を言ってもいいのかと多少不安そうに気にしていたので、「何を言おうが全てマレが勝手にやったことであり、私個人は母の意向に沿う意思があると示せば良いだけだ」と伝えると「それって、僕がもし愛さんをめっちゃくちゃに怒らせて……仁さんになにか、ムチャなことさせようって気持ちにしちゃったら、やばいってこと……?」とさらに顔を青くしたのが愉快だった。
「そうです。最善を尽くすように」
 幼少期からずっと一緒に眠っているらしい綿毛布をぎゅっと抱きしめて、顔にもぎゅっと力を入れて皺を寄せ、なんとも情けない表情でマレは「あう~」と鳴いた。隣で横になり、マレにも布団をかけてやりながら「感情的になることも、突拍子もないことを言い出すようなことも無い、とても落ち着いた女性だから、お前はそう緊張しなくていい」と言ってやれば、幾分か安心してふやけた笑顔を取り戻していた。
 
 現時点で新郎当人らが持つ結婚式への心象や要望をより詳細に引き出し、連携企業それぞれへの分担をざっくりとまとめ、それにエーデルローズ側の同意を得る仕事を終え、マレは業務を正式にシュワルツローズ秘書部へと引き継いだ。マレが制作した資料をもとに秘書部が詳細な計画を立て、連携企業へ正式に依頼をする。やりとりがよりスムーズに運ぶようサポートしたり、衣装や料理を担当するエーデルローズ生と接し刺激を与えることでクオリティアップを狙う役職として、業界の専門的な知識を補うために外部からウェディングプランナーも雇った。実態はアドバイザーといったところか。秘書部を通してしか接していないが、その業務からして必要な要素だろうと、経歴や能力の優秀さ以外にエーデルローズへ馴染むような人物と条件をつけて採用させたので、人格は簡単に想像がつく。なるべく会わずに終えるほうがいいだろう。
 マレの仕事を身軽な私の付き人に戻した後で、母と会う日取りが確定した。
 庭園の藤が今年も見事に咲いていた。広大な庭には噴水や池はもちろん、四季折々を彩る植物が数え切れないほどに植えられていて、藤棚では香りと見た目をゆっくりと楽しむ茶会が開かれたこともある。車内からずっとマレは緊張していてぎこちなく、この景色の前でもなお拭えない様子だったので、多少和らげてやろうと声をかけた。
「藤の花が見頃ですよ」
「ん! あ! ほんとだね。きれい」
 カクカクとした動きで身体の向きを変え、簡単な感想を述べるとマレはそのまま停止してしまった。普段こういった美しいものを見るとカメラを向けるはずなのに、「きれい」と言った笑顔のままで藤棚をじっと見上げているので、やはり同じ思惑でもって再び声をかけた。
「撮らないんですか」
「撮影おーけーなのデスカ!?」
「禁止された覚えは無いが……」
 そりゃ仁さんは自分のおうちだからねと返され、ほんのりと羞恥をおぼえた。こういったわけのわからない会話はいつもならマレが主体でするものなのに。そも撮影を促したのは、マレが撮る花の写真といえば場所の特定が容易ではない接写ばかりの印象だからだった。確かに他人の家の花を勝手に撮影してはいけないなと、私の認識では変わっている――という分類になっている恋人の、実に常識的な一面に素直に感心する。
「じゃ、失礼しまして」
 前言を撤回する。マレは私にカメラを向けたのだった。
「藤の、ことだ!」
「きれいなお花ときれいな仁さんを撮りたくて……」
 呆れと驚きの露出した態度をとってしまったが、マレはえへへとくすぐったそうに頬を掻いていた。
 結局私は生家の藤棚の前で、右手の人差し指と中指で作ったV字を顔へ近付ける羽目になり、マレは目的を忘れたようにご機嫌になった。実際、あの子の中の私の評価が想像以上だと思い知ることがたまにあるので、これから今日はもう悪いことしか起こらなかったとして、それでも眠る前には「綺麗な藤と仁さんの可愛い写真が撮れてうれしかった!」と笑顔を見せそうでもある。何にせよマレの様子がおかしくなると私は巻き込まれておかしな言動をしてしまうことがよくわかった。次は御免だ。
 すっかり緊張の消えたマレはやっと視界が正常に戻ったようで、きょろきょろとあちこちに視線を向けて笑いながら「いつ来ても思うんだけど、ちいちゃい仁さんはこのお庭でどんな風に遊んでたのかなって想像すると楽しくって」「愛さんに聞いたら教えてくれるかな」などとふざけたことを言っていた。やめなさいと言い聞かせておいた。
 すれ違う使用人の一人一人に挨拶をするマレを応接室に案内し、三人掛けのソファの真ん中に座らせ、テーブルを挟んでその向かいに二脚並べられた一人掛けのソファに私は腰を下ろす。この部屋には何度かマレを通したこともあるのだが、付き人としての定位置はいつも私の後方で、座らないことも多かったせいか落ち着かない様子だった。
「どのくらいの深さで座るのがいいの? 仰け反ってなくて前屈みにもならないくらい?」
 もぞもぞと居住まいを正すマレを見て頷いた。咄嗟に声が出なかったことに自分で少し驚いて、喉を広げるように深く息を吸って、吐く。私のほうがよほど緊張していた。その様子を見たマレも同じように深呼吸をした。あの子にとっては自分を落ち着けるためだったのだろうし、手を握るだとか背をさするような接触もなかったのに、私と足並みを揃え寄り添うようなマレの仕草は己の深呼吸よりもずっと効果があったと思う。どちらともなく微笑み合った時、音もなく扉は開いてようやく母はやってきた。
 まずマレが「あ!」と嬉しそうに立ち上がって「こんにちは、愛さん。僕は蓼丸です。ご挨拶できてうれしいです!」とニッコリ笑った。墨で描いたようなニュアンスを全身に纏った母は数秒マレを見つめた後で私の隣に座り、マレの着席を待って「それで、用件は?」と、眼を少し伏せたまま、おそらくはマレでなく私に尋ねた。
「本日は彼に挨拶をさせるためにお時間をいただきました」
「……」
 母は再びマレを見て、今度は目を逸らさなかった。マレの言葉を待っていたのだろう。
「えと、あの……僕、仁さんとお付き合い、交際! させていただいております! 歳は仁さんの十一下で、以前はシュワルツローズに通っていました。今はシュワルツローズの秘書課に勤めています」
「知っています」
 私は目を剥いて母の顔を見た。入室時と変わらぬ涼しげな、普段通りの無表情で、私を一瞥もしない。どこまでを、と愚問を口にしてしまう前に母は「内縁関係にあると報告を受けています」と続けた。
「ああ! はい、それです!」
 場違いに明るい声へつられてマレに視線を戻すと、それはもうこれ以上ない笑顔だった。何がそんなに嬉しいのかわけがわからなかった。説明の手間が省けたというよりは、もう何かしらの許可や容認を得たような――知られた上で何も制限されていなかったことをまさにそう捉えたのか?
「あなたの席は、そこ?」
 急に母に話しかけられて私は肩をびくりと上げた。
「はい、私は彼ではなくお母様のご意向に沿います」
 どうにか舌を縺れさせずに言えたと安堵する程度には余裕がなかった。母がマレのほうに意識を向け直すのを待って、私は小さく息を吐く。
「愛さんはやっぱり、仁さんに家柄の良い女の人と結婚してもらって、この家を継ぐ子が欲しいって思いますか?」
「……それが当然の役割よ」
 理解していることを示すために頷いた。
「愛さんもそれが役割だからお母さんになったんですか」
 長い沈黙だった。私が認識している印象の母はいつも、相手が誰だとしてもコミュニケーションを必要最小限に抑えているので、順番に丁寧に包みを剥がすようなマレの接し方に対する最短の返しを思案しているのだろうと思いながら返答を待った。
「姉や兄たちが全てを滞りなく担当して、わたくしにはこれといった役割がありません。故にただ、有栖之園家の不利益にならないよう動いています」
 母はあまり話さない人だから、その内容も言葉の多さも意外だった。会話を終わらせるための何かを口にするとして、マレの問い自体は簡潔に肯定するものだと信じて疑っていなかったのだ。
「この人は……息子は、これまでも役割を果たせていない。今更もうひとつ失態が重なったところで、興味はないわ」
 母の発言は、マレが最終的に私と籍を入れたいと要望することを見越したに違いないものだった。私はほっとして、いつの間にか固く握りしめていた手の力を抜くことができた。それなのに、好きにしていいと許されたも同然なのに、マレは口元に笑みを浮かべたまま、すうと冷えた目をしていた。こういう感情の読めない表情の時、この子は大抵静かに怒っている。
マレ
「家族から期待されないとか、興味を持たれないことがご自身でも不快だったから、仁さんには役割を用意したんじゃないんですか。どうしてそんな言い方、」
 余計なことを口にするなよと制すために呼んだ名前は、目的を達するには一足遅く、マレは私の声に被ったことにも気付かないままでほとんど全部言ってしまった。止まったのは首を振る私と目が合ったからだ。
「期待をかけ、応える場を用意して、この人は応えなかった」
「はい」
 母の言葉をしっかりと肯定する私に、マレは不満げな顔で押し黙る。今回はこの子には締められないだろうと判断し、立ち上がってマレの代わりに深く頭を下げた。
「申し訳ございません。本日は貴重なお時間を割いていただきありがとうございました」
 マレも遅れて同じようにして「ありがとうございました」と言った。母は何も言わず、入室時と同じように音もなく退室した。
 母は、有栖之園にとって自分の役割は無いと言った。私はまず、あの母が自身について語ること自体への意外さを飲み込むのに時間が必要だった。これまで接してきて個人的な話を聞くのは初めての経験で、その内容も今までに抱いていた母の印象と違う。そもそも尋ねたことが無いのだから当然なのかもしれない。マレと出会った頃、考えたことも無かった自身について言語化する機会が不本意に増えたことを思い出す。今となっては懐かしいあの煩雑な感覚を母も味わったのだろうか。あの母がマレの存在を許したという点にもじわじわと驚きがあった。「興味はない」という言葉にそれほど好意的な意図は見当たらないが、排除するべきと拒絶される可能性を一番に考えていたのだから、比較するまでもなく良い反応といえる。母にとっては息子である私も興味に値しないのだと、そう断言されたも同然だったが、私の中に特筆すべき感情は湧かず、マレがずっと心を痛めていることのほうが気がかりだった。
 母の退室後、マレは糸が切れたように背もたれに体重を預け、くったりとだらしのない姿勢になった。唇を尖らせるだけでなく鼻にも皺を寄せて「う~!」と唸っていた。私が給仕を呼び、お茶を出すように指示している間も、頬に空気を詰めたまま棚の上のモンステラを睨んでいた。
「懸念点が杞憂に終わって良かったじゃないか」
「……よかった」
 マレは不満ですと書かれた顔のままでちびちびとミルクティーを飲む。私は気にしていないと言ったところで何の慰めにもならないのは理解していた。父の事業の後を継ぐために生まれたのに、取り組んだ結果が現状なのだから当たり前の評価だとか、両親の興味が私へと特に向かないのは今に始まったことではないとか、より深く抉ってしまうようなことが脳裏に浮かんでは追い出した。例えば、ああして反論してくれて嬉しかった、だとかは相応しい言葉だったのかもしれない。しかし口にしたところで心にも無い、ただマレを慰めるためだけのものだとすぐに看破されただろう。
「今後の予定を決めたら改めて母に報告、いや挨拶をしましょう」
 結局、慰めるより気を紛らわせてやろうとこれからのことへ言及することにした。
「僕たち結婚したいです! のやつ?」
「そうだ」
 マレはむうと尖らせた唇を少し緩めて、拗ねている表情を保ちながらも少し嬉しそうに「うん」と言う。気は紛れたようだと満足して、あとはカップを空にし家へ帰るだけなので、会話に割いていた脳を解放し仕事へと意識を向け始めた。
「あ!」
 何かを閃きましたというお手本のような表情を見せた後、マレは残りをぐいと飲み干して丁寧にカップを置く。視線で疑問を投げると、マレはすっかり機嫌を直した様子でニコニコと笑みを返した。それから姿勢を正して、私に右手を差し出した。
「仁さん、僕と結婚しよう!」

結婚式の準備は滞りなく進んでいた。アドバイザー程度の役割を与えたつもりだったウェディングプランナーは予想以上にエーデルローズ側と意気投合したようで、プランの随所にその結果が反映されていた。当初のイメージより幾分か親しみやすさは増していたものの、品位を損なうほどではなく、ルヰ本人にも確認したところ大いに満足しているとのことだったので、問題は無いと判断した。すでに各種メディア向けの発表と招待状の最終調整に入り、衣装や食事メニュー、ショーの段取りに演出、そして指輪といった主要な点についても多くが決定していた。近々控えている装花やテーブルコーディネートの打ち合わせ準備について承諾し、メールを閉じた。この日は有栖之園と付き合いの長い外商員がやってきて、マレと共に指輪を選ぶ予定があった。
 我々が同棲を決めた際に購入した揃いの指輪は、私とマレにとっては正真正銘の結婚指輪に相違無かったが、母や有栖之園家の人間への披露に値するかといえば、相応しくないものであった。マレが普段使いしても委縮しない程度の価格に抑える必要があったし、どちらもファッションのアクセントにするより溶け込むようなシンプルで洗練されたデザインを求めていた。……実際のところ、オーダーメイドで細部にこだわったためマレが当初口にした価格帯には収まらなかったが、適当に誤魔化しておいたのであの子は知らない。
 もう一組結婚指輪が必要になる旨を伝えると、マレはどこか他人事のように「そうなんだあ。たしかに」と感心していた。いくつかの条件を予め外商に伝えておけば希望に沿った商品を携えてやってくるので、その中から一緒に選ぼうと誘う。「わかった!」と何気ないことを了承するような軽快な返事での承諾を受け取った。従順なやつだ。
 二度目のプロポーズに左手を重ねて応えた後、帰りの車内でマレはずっと日付について悩んでいた。入籍に相応しい記念日を定めるために語呂合わせだとか縁起だとかを調べては、どうにも決め手に欠けるのか唸る、というのを繰り返していた。今更何でもいいだろうと思ったが口にはしない。今年はもう過ぎてしまったが、現在の事実婚状態の始まりとなった一度目のプロポーズの日付を調べると丁度来年は天赦日だったので、伝えればすんなりと決まった。
「愛さんは興味ないって言ってたけど、やっぱり仁さんの親戚の皆さんを招待するようなおっきい結婚式が必要かな?」
「挙式で充分だろう、多分」
「たぶん?」
 んふふとご機嫌に笑うので「なんですか」と問うと、マレは「かわいくて……」とフニャフニャした。この子の感性は時々本当に何が何だかわからない。
「ルヰとシンくんの結婚式のこと色々やってたからさ、今のぼくは挙式と披露宴の違いがわかる男だよ」
「ふっ、賢いな」
 ただでさえご機嫌な上に得意げだったマレは私からの賛辞で有頂天になって、緩んだ顔を隠すように額をぐりぐりと私の肩へ押し付けた。
蓼丸家にも改めてご挨拶に伺う必要があるな」
「うちはあんまり気にしないというか、ふつうに電話とかで報告するだけでいいんじゃない? すでに今もう、仁さんのこと僕の旦那さまで義理の息子って感じに思ってる気がするし……」
 マレは口をむにゅむにゅさせた後で「もし愛さんがよかったらさ、両家のご挨拶的な感じで一緒にご飯とか食べながらお話しするとかどーだろ?」と良い提案をした。
「披露宴も無いし、そういう機会が一回くらいはあったほうが良かったりしないかな?」
「確かに。母にとっては煩わしさがあるかもしれないが、蓼丸家への礼儀として、お前の身を預かる側の家として必要だと思う」
 車がシュワルツローズの地下駐車場に入り停止したので、一度会話を切り上げて口を結ぶ。マレとプライベートな会話をしたままで表情の初期化を怠ると、情けなく緩んだ顔を意図せずに晒す可能性があるからだ。ただの帰宅であっても居住フロアへ直通のエレベーターに乗り込むまでは威厳ある表情を保つよう心掛けている。
「まずは私が母に打診する。了承を得たらそっちの家族にはお前から連絡しなさい」
「わかった!」
 特に苦労もなく法月邸にご招待する形での両家の顔合わせ食事会が決まった。蓼丸家は広島県にあるため移動手段は法月家が用意し、法月邸に宿泊していただく。マレの妹の蓼丸すずはまだ学生なので、金曜に迎え、土曜に食事会、日曜にお送りすると提案したところ、ご両親にものすごい勢いで遠慮されてしまった。すずが「仁くんは規格外のお金持ちなんじゃって! これが普通のおもてなしなんじゃって! ママもすずの友達に『夕飯をごちそうになるなんて申し訳ない』って手料理を遠慮されたらさみしーじゃろ!?」と説得してくれたおかげでどうにか頷いていただけた。「プライベートジェットだって!」「手土産って何を持って行きゃあええんかの……」「わからん。それはもう仁くんに教えてもらおう」スピーカー越しにわいわいと話す家族にマレも混ざっていてとても賑やかだった。手土産は私とマレで用意し食事会の前にお渡しすると伝え、滞在中は法月家の使用人が付くため車なども出せること、故に食事会以外の時間はよければ観光などをしていただければと続けると「行きたい場所リストアップする!」というすずの声がスピーカー越しにフェードアウトしていった。詳細な時間は後日連絡するということで通話が終了した。
「うるさくってごめんね」
「いい。食事会は厳かなものになるだろうから、それ以外の時間は楽しんでいただけそうで何よりです」
 自宅のリビングだったせいか、マレはキュ~ンと音が鳴りそうな表情を惜しげもなく顔面に載せてゆっくり私を抱きしめると「はあ……仁さん……」とつい漏れたような声を出した。慣れたものだ。
 食事会でも母はあまり口を開かなかった。私の父が亡くなっていることもあって、人数に偏りがあったため円卓を用意し、私の母、私、マレ、すず、マレの父、マレの母という席順にした。母同士で少しでも会話が進めばと思ったのだが、マレの母がにこやかに話しかける言葉に私の母が端的な言葉で相槌や返事を返す程度のやりとりしか無かったようだった。入籍をすることとその予定日、挙式のみを執り行うつもりであることを伝えると、母はその日初めて私と目を合わせ「指輪は外商に」と言った。この日母が私にかけた言葉はこれだけだった。マレにも聞こえていただろうが意味は掴み損ねていると察し、あれはもう一組結婚指輪が必要になるということなのだと会の後に説明したのだった。
 青がいいの一声でブルーサファイアに決まった。太く存在感のあるリングに、濃厚で気品のあるブルーが輝く見事な結婚指輪だった。仕上げにリングケースを選び、予定していたよりずっと早くに商談は終わった。さっさと蓋を閉じて挙式の日まで仕舞い込んでしまおうと思うくらいには、その指輪は私にとって責務の象徴だったので、マレと共に住むこの部屋に置くのは気分が良くなかった。マレが欲しがったもので、つけていればマレが喜ぶからと、私自身には必ずしも必要ではないと思っていた結婚指輪だったが、存在を上塗りされそうになって初めて思い入れがあるのだと自覚した。深くため息を吐く。
「ん~、きれいだねえ」
 惨憺たる内心でその輝きを見つめていたことなど知る由もないマレが能天気に言った。敢えて否定する気にもなれず、かといって同意もしかねるので沈黙で返す。
「どこに飾ろうねえ」
「……飾るんですか」
「えっ、だめ? そっか、宝石ってずっと出しとくようなものじゃない?」
 いや……と歯切れ悪くすると、マレは私をじっと見て続きを待った。
「お前と作ったこっちが本当の結婚指輪なのに、役目を奪われるようで気に食わないだけです」
「そっかそっか、たしかに愛さんはきっとそういう意味で用意するように言ったんだもんね」
 きっと?と聞き返すと「この指輪のこと婚約指輪と思って、結婚指輪はここで買いな~っておしえてくれたのかもしれないなと思って」と私の印象からはかけ離れた母のイメージを語られて、すぐには内容と人物が一致しなかった。マレのふわふわの脳にかかるとあの母でさえそう解釈される余地があるのか……出会った頃からずっと優しいだの可愛いだのと形容されているが、十数年経って初めてマレの言葉を別方向から眺めたような気分になる。お気楽な人間であることは知っていたが、簡単に善意の逃げ道を想定してしまえる態度は誰に対してでもそうなのだろうか。私の親ということで特別に緩くなっているのかもしれない。
「でも仁さんが好きじゃないならしまっちゃってもいいよ。僕もこっちの結婚指輪がいちばん好き」
 マレが何の躊躇いも無く蓋を閉じたので少し面食らった。
「でも、マレが好きな色で選んだだろう」
「ん……まあね、いちばん仁さんの目の色っぽく見えるライトの当たり方のところに飾ろうかなあって、さっきまで思ってたけど」
 仁さんみを求めて宝石見るより本物の仁さんを見つめた方が幸せだから、別にいーよー。ゆるゆるとした声が指先にまで伝ったような緩慢さで、マレは軽くリングケースを撫でた。私が気にも留めないようなことを世界で一番の宝物みたいに大事にしてみせたり、私の世界ではあまりに重く微塵も動かせないものを羽のように軽く扱ってみせたり、マレの壊れたような天秤はしばしば私の平衡感覚をおかしくさせる。
「……保留だ」
「保留?」
「仕舞ったり、飾ったり、しましょう」
「あは! いいね」
 閉ざされた箱の中、あれほど重たかったブルーサファイアの輝きを、もう詳細に思い出すことができなかった。
 もう一度見て、確かめたいとすら思っていた。
 
 晴天の空気を簡単に忘れてしまうほどに陰鬱とした雨が続く。降水を免れたとしても、日中にも構わず重たい曇天が生活に暗がりを落とすのが梅雨だ。その真ん中に生まれたマレは雨が苦手で、梅雨前線の停滞と共にすんと引きこもるのが常だった。正確には雨そのものではなく、雨天によって行動範囲を広げる蝸牛に蛞蝓、蚯蚓、蛭といったじめじめ虫が大嫌いなので、雨が降っているかどうかに関わらず地面が湿っている場所に行くのを避けたがる。しかし傘や窓に当たる雨粒の音、水滴を受けた革靴の手入れ、絶えず広がる小さな水紋はむしろ好ましいらしく、つまり梅雨よ早く終われと願う憂鬱に苛まれるというより、むしろ安全な場所から梅雨を堪能するために前向きのルンルンで自宅に閉じこもるのだ。そうしたくても出来なかった以前には梅雨が苦手な季節だったそうだが、地面がからりと乾くまで好きなだけ部屋に居ても良い現在の生活では、好ましい季節といえるほどになったらしい。恋人が自分の生まれた季節を嫌わずに済む手助けができるのは、悪い気分ではなかった。
 今年の誕生日プレゼントには服を用意した。セットアップで、裾を五つのボタンで袖のように絞るシルエットが特徴的なハイウエストハーレムパンツに、Lシェープドラペルカラーのショート丈ドルマンジャケット。無地の黒でマレが好むモード系のユニセックスなデザインを依頼し、マレの身体に合わせて作らせたものになる。マレのクローゼットにはいつも余裕があって、本人があまり服飾をそうたくさん買わない傾向にあるからなのだが、つまりすでに充分足りている服を贈ることは「これを着用するお前が見たい」と要望するに等しいと考えた。内容に関わらず、何であれ私に要望されること自体をあの子はとても喜ぶので、要は気持ちを贈ろうというわけだった。……実際似合うだろうし、少し前にセットアップを普段使いで着こなせるのは大人っぽくてかっこいいだとか何とか言っていたし、さまざまな観点からより喜ぶものだろうと判断したのだ。
 当日、朝の挨拶と一緒に祝いの言葉を伝えた後で、ナイトウェアのままソファでのんびりと私の作る朝食を待つマレに、今のうちに着替えてくるよう促した。昨晩クローゼットにかけておいた贈り物を発見させるためだ。ドアの向こうから「うれしい!ありがとう~!!」と叫ぶのが聞こえ、笑みがこぼれた。着替え終えたマレが「じゃーん!」と両手を広げてみせるのでよく似合ってると褒め、そのまま一緒に朝食を食べる。この後は、今の時期に外出を嫌がるマレのために全てを自宅やこのビルの内部で済ませられるようゆるく過ごし、最後にシェフを呼んでの自宅ディナーを予定している。
「何して過ごそうね」
マレの好きなように過ごして欲しいんですが……一つ用意しているものがあります」
 葉書ほどのサイズのカードの束を伏せてテーブルに置く。
「これにはアーサー・アーロン博士という心理学者が考えた質問が書かれている。これを交互に読み上げ、読み上げた方から順に回答する――というのを三六問全てこなすと、より親密になれるといわれています」
「へえ! やろうやろう。仁さんともっと仲良くなる!」
 実際は「恋に落ちる」として知られているものなのだが、気恥ずかしいので黙っておいた。
「ただ、真剣にやると三時間から五時間ほどかかるそうです。だから別に今日ではなくても……」
「いま完全にそれやりたい気持ちになったもん。やろ!」
「そうか」
 お茶と珈琲を用意してどちらから始めるかを話し合う。今更になって改めて互いの理解を深めるような機会を用意したのは、私が自分の気持ちについて話すことを苦手としているからだ。初めから上手く話せないと出鼻を挫かれてしまうだろうと思い、マレから先にカードを捲ってもらうことにした。
 ダイニングテーブル、山札のように裏返して置かれたカードを挟んで、私たちは向かい合う。マレは少し背筋を伸ばして「でわ!」と声を出してから、一枚裏返した。

一 Given the choice of anyone in the world, whom would you want as a dinner guest?――世界中の誰でもいいとしたら、ディナーに誰を誘いますか?
「こーれは仁さんに決まってるよ!」
「でしょうね……とても誘えない人の中でならどうだ?」
「じゃあなんか、こないだ見た舞台の役者さんとかかな……仁さんは?」
「……ルヰ」
「お引越ししちゃったもんねえ」

二 Would you like to be famous? In what way?――有名になりたいですか? なりたいなら、どんな方法で?
「有名になりたいわけではないが、結果を出せばなってしまうものだろうな。その内容や実質的な権威、地位こそが重要で、有名かどうかは後からついてくるものだ」
「うんうん。僕も別になりたくない!」
「……やり方はこれで合っているのだろうか」

三 Before making a telephone call, do you ever rehearse what you are going to say? Why?――電話をかける前に、話す内容を練習したことはありますか? それはなぜ?
「あるよお~電話苦手だもん! 緊張するし……」
「リハーサルというほどではないな。内容を確認だとか整理することは常だが」
 
四 What would constitute a “perfect” day for you?――あなたにとって『完璧な一日』とは?
「全てが計画通りに進み、イレギュラーが一切無い日」
「これたぶん、理想の一日みたいなことじゃない?何時に起きて、何を食べて……」
「ああ……。七時起床、軽く運動をして、朝食は和食」
「朝ごはん和食派だったの?」
「いや、何でもいいんですが……強いて言うなら味噌汁が」
「これから毎朝味噌汁にしよう!」
「そこまでじゃない。……それから、仕事に行って……」
「理想の日なのに仕事してる!」
「ああ、そうか……では、仕事はしないでお前と過ごしますよ。お風呂に入って、料理をして昼食、お前と何かしてから夕食、それからお風呂に入って、お前とまた何かをします」
「あは、楽しそう。僕はのんびり十一時くらいに起きて、プールで浮いたり泳いだりして、十八時くらいに帰ってきて……ゲームして映画とか観ちゃって朝の三時くらいに寝る! だから仁さんの理想の日と一緒にできるよ」
「私が料理をしている頃にマレは起きてきて、一緒にランチを食べた後でプール?」
「そう! ふやふやになっちゃうね」

五 When did you last sing to yourself? To someone else?――最後に一人で歌をうたったのはいつですか? また、人前では?
「家で気軽に歌ってるよねえ? あれは一人かな……仁さんに聴いてもらおう!とは思ってないし」
「そうですね」
「聴かせるぞお~っていうのは、そうねえ……一月頃にともだちとカラオケ行きました!」
「私は、一人で歌うことは無いし、人前は現役の頃だけです」
「たしかに……ぼくはちなみにいつでも仁さんの歌聴きたいです!」
「覚えておこう」

六 If you were able to live to the age of 90 and retain either the mind or body of a 30-year-old for the last 60 years of your life, which would you want?――三十歳の「心」か「体」を保ったままで九十歳まで生きるとしたら、どちらを選びますか?
「体がいい」
「わかる。心の老いってよくわかんないけど、体は老いてるの感じるよね」
「ああ」

七 Do you have a secret hunch about how you will die?――自分の死に方について、密かに予感していることはありますか?
「え!? 無い!」
「私は眠る時に、このまま死ぬような気がしていた時期がありましたよ」
「え!?」
「その頃の影響か、今も死は眠るように訪れるような気がします」
「さ、さみしい……」

八 Name three things you and your partner appear to have in common.――あなたと相手の共通点を三つ挙げてください。
「男、短髪、日本人」
「お湯でふやふやになるのが好き、家にいるのが好き、一緒にくっついて寝るのが好き」
「……なるほど」

九 For what in your life do you feel most grateful?――人生において最も感謝していることは?
「両親が中学生のぼくをひとりで上京させてエーデルローズに通わせてくれたこと!」
「同じです」
「え!」

十 If you could change anything about the way you were raised, what would it be?――もし自分の育ちを変えられるなら、何を変えたいですか?
「……」
「と、とばす?」
「いや……そうですね、特に変える必要は無いかもしれません」
「そーなの? ぼくはお箸の使い方が上手になるように厳しくしてもらう!」
「そうか」

十一 Take four minutes and tell your partner your life story in as much detail as possible.――四分間で、あなたの人生をできるだけ細かく教えてください。
「えーとね、ぼくは広島県東広島市で生まれ……生まれた病院は市内じゃないかもだけど、とにかくそこの実家で育ちました! 二階が無い平屋でね、もともとはお母さんが育った古い和風のお屋敷だったんだけど、リフォームだか建て替えだかをして今の感じになったんだって。今いる子とは違うけど、犬を飼ってたよ。五歳の時にテレビで仁さんを見てからずっと好きでね……近所の小学校に通って、応援団やったり児童会やったりもしてたけど、クラブはずっとプリズムショーだったよ。あ、僕の学年ね、人数が少なくてほとんどずっと一クラスしかなかったから、二年二組以外は全部年で一組だったのね。だから華京院入ったら人の多さとクラスの多さにびっくりしたよ。うーんと、まだ一分くらいしか経ってないけど、そこからは仁さんもご存知の通りって感じ……」
「エーデルローズを受験するのは少しも反対されなかったのか?」
「ん~そうね……先生とかには何回も確認された気がするけど、両親はね、仁さん大好きのぼくを二〇〇八年のキングカップの現地に連れて行ってくれたりしてたから、全然反対せずに応援してくれたと思う。あ、その頃に妹も生まれたよ! 仁さんがエーデルローズの主宰になったってニュースを見たのが五年生の頃で、もともと勉強は得意なほうだったから華京院の受験も決めて、そこから一年間はみっちり勉強とプリズムショーのレッスンしてた。受かってから電車の乗り方とか東京で気を付けることとかの、生活についてのお勉強を慌ててしたり、寮に持ってく物を用意したり……思い返すと人生で一番忙しかったかも! あはは。……うわん、まだ二分……えーとえーと、華京院では図書委員とか新聞委員をやってたかな……プリントとか掲示物の作成を定期的にしてた記憶があるよ。あ! 小学生の頃は水泳を習ってたから、基本の泳ぎ方は全部できる! 一番好きなのは背泳ぎで……誕生日は六月三十日、仁さんと同じかに座、血液型はB型……ぼくはいまプロフィール帳を思い出している……」
「あと一分」
「うー! 友達はあんまりいなくて、一人でできる遊びが好き。読書とか作曲とか工作もそうだけど、ゲームもマルチより一人のやつが好きだし、スポーツも個人競技がいいな……。生まれた時から一緒の綿毛布がずっとお気に入りで、寮でも抱っこしたりくるまってたし、仁さんと一緒のベッドにも置かせてもらってる……でも寮の時は少し恥ずかしくて、同室の子にはちょっぴり内緒にしてたよ。仁さんはからかったりしなくて優しい! はい四分! 思いのほか長かった!」
「よくできました。私は、そうですね……出身は東京都新宿区四谷です。物心のついた頃には家庭教師がいて、学校で習うような勉強以外に、歩き方や座り方、話し方といった基本的な立ち振る舞いやマナー、乗馬やヴァイオリン、ピアノ、社交場で必要になるダンス、お茶など……数えきれない稽古事がありました。その中でもプリズムショーにまつわるものに一番力を入れていましたが、理由を覚えていないので、おそらく私の興味や好みではなく両親からの言いつけがあったのだと思います。留学でアイススケートのコーチに師事したこともあって、英語、フランス語、ドイツ語、スペイン語が話せますよ」
「すごすぎる」
「日常会話程度でいいならもっとあるし、これからも増えていくでしょうね。二つ下の、腹違いの弟がいて……彼の母親が亡くなり、我が家が引き取ったので、十一歳から四年ほど同じ家で暮らしていました。彼は華京院学園中等部に入学すると同時に寮へと入ることになり、ずっと生家で暮らす私とは少し距離ができました。立ち振る舞い等の最低限のお稽古以外は自由に過ごしていた彼――聖は、いつも声をあげて笑い、屋敷中を駆け回っていて賑やかなものでした。私は物静かな子供だったので、聖が入寮すると屋敷は時が止まったように静かになったのをよく覚えています。……確か、父がそう言ったんですよ、静かだと。聖はそのまま卒業するまで寮にいて、そのあとは父が用意した部屋に住んでいたはずです。高等部から、私は二度目のキングカップ優勝を目指してよりプリズムショーに力を入れるようになりました。ああ、中等部からずっと生徒会役員をしていましたね。やはり父の立場があったので、当然そうするだろうと、周囲も私自身も特に疑問を抱いていなかったと思います。高等部を卒業し、大学では主に経営学を学びました。二度目の優勝を果たした後は、大学に通いながらエーデルローズのコーチとしてプリズムショーに関わり、卒業後に主宰へと就任しました」
「あと一分くらい!」
「シュワルツローズでのあれこれは割愛するとして、マレと出会い過ごすうちに、それまでの人生でずっと感じていた閉塞感や焦燥感が消えていきました。目標はずっとあったけれど、一歩踏み外せば奈落の綱渡りのゴールのようで、それが生きている限り続くと察する頃には、先行きなど見えないも同然でした。今はこれといった人生の目的、到達するべき目標のような緊張感は無に等しいけれど、ずっと自由で、どこにでも行けそうな気がしますよ。マレと出会えて幸運です。以上」
「急展開でドキドキしちゃった。きゅん」

十二 If you could wake up tomorrow having gained any one quality or ability, what would it be?――明日、目覚めると好きな才能や能力が一つ備わっているとしたら、どんなものがいいですか?
「間違った選択をしない能力」
「最強すぎじゃん! 僕はね、水の中でも息ができる能力が良いな。いや息をしなくても平気な能力のほうが汎用性高いかな? それか人魚になれる能力、深海に行ける……」
「好きなだけ水中に居たいんですね」
「そうです!」

 この質問は三つのパートにわかれていて、ここで一区切りとなる。時計を見るとまだ昼前だったし、そう時間は経っていなかったが、つまりこの先が長いのだろうと予見して白湯とお菓子を用意することにした。集中してずっと同じ姿勢でいたためか身体が少しかたい。ぐっと伸びをしながら、続きはソファにしようと提案した。
 話す際、お互いに身体を向けやすいよう少し距離を開けて座り、テーブルにカードを置く。楽しいかと尋ねると、マレは食い気味に楽しいよと答えた。用意して良かったと思う。

十三 If a crystal ball could tell you the truth about yourself, your life, the future or anything else, what would you want to know?――あなたの人生や未来、あるいは他のどんな真実でも教えてくれる水晶玉があるとしたら、何を知りたいですか?
「えー? ううん、こういうのでおっきいことをあんまり聞きたくないタイプ……何か失くした時とかどーしても迷ったときにそのことをちょくちょく聞こうかな」
「何度も聞けるのか?」
「一回だけって書いてないよ」
「そうか。じゃあ私もそうする」
「便利水晶さん」

十四 Is there something that you’ve dreamed of doing for a long time? Why haven’t you done it?――長い間やってみたいと思っていることはありますか? あるならば、なぜやっていないのですか?
「特にない」
「僕も! 入籍がそれだった気がするけど、もうやるって話になったし……やってなかった理由は、遠慮かな。気遣い……」
「そうですね」

十五 What is the greatest accomplishment of your life?――あなたの人生における最大の功績はなんですか?
「ふっふっふ。仁さんを幸せにしていることです!」
「……いいでしょう。私は教え子から三人、ヒロを含めれば四人も大きな大会で優勝させていることですね」
「仁さん無くしてプリズムショーは語れないー♪」

十六 What do you value most in a friendship?――友人関係において最も重視していることはなんですか?
「……利害……?」
「ルヰを! ルヰを思い出して!」
「…………安らぎ……?」
「いいね! 僕は対話!」
「これは質問が抽象的すぎる」

十七 What is your most treasured memory?――一番大切な思い出はなんですか?
「今は、仁さんが一緒に住もうって言ってくれた時のことだけど……多分これから先、挙式がそれになる気がする」
「そうですね。私はマレが恋人になりたいと言った時ですが、今後は同じになると思う」

十八 What is your most terrible memory?――一番最悪な思い出はなんですか?
「これは聖だろ」
「あはは! どの時?」
「四連続を完成させた時……いや、実際目にはしていないから、母の前で聖がショーをした時、ですかね」
「僕はねえ、仁さんがエーデルローズからいなくなっちゃった時だよ。あれはもうトラウマ」
「うん」

十九 If you knew that in one year you would die suddenly, would you change anything about the way you are now living? Why?――一年後に突然死ぬとわかったら、今の生き方を何か変えますか? それはなぜ?
「特に変えないなあ。ちょっと怠け癖というか、後回しにしちゃうのをやめるかも?」
「私は仕事を辞めると思う」
「え! じゃあぼくもやめる」

二十 What does friendship mean to you?――あなたにとって友情とは?
「さっき同じようなのが無かったか?」
「仁さんにとって、友情は安らぎ?」
「うん」
「僕にとっては、ほかのナントカ情とあんまり違いが無いというか……幸せで元気でいて欲しくて、一緒にいると楽しかったり安心したりして、疑う心配がないことかなあ」

二十一 What roles do love and affection play in your life?――あなたの人生において、愛や愛情表現はどのような役割を果たしていますか?
「えー、幸せをもたらしてる? 行動の理由やきっかけだったりもするかも、仁さんについてはね」
「…………安らぎ……」
「仁さんは安らぎボットになってしまった?」

二十二 Alternate sharing something you consider a positive characteristic of your partner. Share a total of five items.――相手の長所を全部で五つ、交互に一つずつ挙げてください。
「従順」
「まず見た目がめちゃくちゃ綺麗で可愛くてかっこいい、特にお顔が」
「よく笑う」
「ストイックで頑張り屋さんのところ」
「わりと器用」
「何をするときも丁寧なところ」
「……素直」
「あ! 僕も今似たこと言おうとしてた。無垢なところって」
「顔が美しい」
「あとはね、とっても真面目なところ」
「つまり私の長所は、容姿、努力家、丁寧、無垢、真面目か」
「ぼくはいい子、にこにこ、わりと器用で素直、顔!」
「無垢?」
「清らかだな~って思うことわりとあるよ」
「全く心当たりが無い」

二十三 How close and warm is your family? Do you feel your childhood was happier than most other people’s?――家族と仲が良いですか? 子供時代は他の人より幸せだったと思いますか?
「仲良いし、だいぶ幸せだったと思う! 当時は他のおうちのこといいなあって思ったりもしてたけど……二階があるっていいなあとか」
「特別仲が良いとは言えないが、悪くも無いと思う。……待て、聖と亡くなった父を含む必要は無いよな?」
「お好きなように」
「では、普通でしょう。子供時代も恵まれていたと思います」
「幸せだった?」
「……特に幸せではなかったが、他人と比べると、幸せだったんじゃないですか」

二十四 How do you feel about your relationship with your mother?――母親との関係をどう感じていますか?
「問題は無いと思う」
「仲良し! この質問は終わり!」

 気付くと昼食の時間を少し過ぎていた。サンドウィッチのデリバリーを依頼して待つ。マレの好むチェーン店は大抵このビルに入っていて、電話で注文したのですぐに呼び鈴が鳴ることだろう。会話に集中していたためかお菓子はあまり減っておらず、盛り付けた盆をそのままキッチンの棚に片付けた。今度はマレの方から「疲れてない?」と尋ねられたので、大丈夫だと答えた。
「……より親密になっているような感覚があるか?」
「あるよ! 知らなかったこといっぱい聞けてるし、なんとなく知ってたことも、仁さんの今の言葉だとこう言うんだなあってわかって嬉しいよ」
「そうか。私も概ね同じです」
 それに加えて、やはり私はマレをよく理解しているなと確信を得てもいるのだが、これについては黙っておいた。
 マレが贈られた服を見て欲しいとくるくる回ったり、ポーズをとったりするので、そういえばとSNSに投稿する用の写真すら撮っていなかったことを指摘して、軽い撮影会となった。クローゼットにソファやベッドでもポーズをとらせて、それから二人で写ったものを撮っているとデリバリーが到着した。マレが好みのランチというだけにしては過剰にうきうきで玄関に向かって行ったので、誰かに見せたかったことにようやく思い当たった。
「ほかほかだからこのまま食べちゃお」
 手際よく食器の準備をするマレをじっと眺めてから口を開く。
「……外出したかったか?」
「え? 雨に濡れたらやだよ!」
「そうか」
 サンドウィッチとサイドメニューのフライドポテトを大きな平皿に盛りつけて両手に一つずつ持ち、マレは跳ねた声で「できたよ~♪」とキッチンから出てきた。やはりただランチが楽しみだっただけかもしれない。美味しいと何度も言って、いいペースで食べるのを見て確信した。さっきの過剰なうきうきはランチが大好物だったからだ。
 食事を終え、再びカップを持ってソファに座る。カードは先ほどのまま、満腹だったのでお菓子は用意しなかった。ふと、耐水性のカードにしていれば風呂でやれたなと思い至る。今後同じような機会があればぜひそうしよう。
 順番は再びマレからだったが、当人は忘れていたのでどうぞと手で指した。マレは少し背筋を伸ばして「よし!」と声を出してから、一枚裏返した。

二十五 Make three true “we” statements each. For instance, “We are both in this room feeling … “――「私たち」から始まる事実を、交互に三つずつ述べてください。例:「私たちは同じ部屋で会話をしている」
「んーと、私たちは婚約している!」
「私たちは、より親密になりたいと思っている」
「私たちはお腹いっぱい」
「私たちは、有意義な時間を過ごしている」
「私たちは~、お風呂に入りたい」
「ふっ、そうですね。私たちは、お互いを深く理解している」

二十六 Complete this sentence: “I wish I had someone with whom I could share … “――「誰かと○○について分かち合えたらいいのに」という文章を完成させてください。
「これは例えば共感、あるいは一緒にこれをやる人がいたらいいのに、のような広い意味で捉えていい。私の場合は『誰かと仕事についての苦労を分かち合えたらいいのに』」
「そうだなあ、ん~……『誰かと仁さんの素晴らしさについて分かち合えたらいいのに』! お話したり、一緒にプリズムショー観たりしたい」
「私がたまに相手しているだろう」
「そうなんだけどね、向こうからも同じくらいの熱量で仁さんの良さを語ってもらって、それに『わかる~』って言いたい気分の時もあるよ」
「そうですか」
「仁さんのお仕事の愚痴は、ぼくが聞いてもなんも役に立てないよねえ」
「そういうわけではないが、確かにお前が満足しない感覚は理解できます」

二十七 If you were going to become a close friend with your partner, please share what would be important for him or her to know.――相手と親しい友人になるとしたら、あなたについて相手が知っておくべき重要なことはなんですか?
「偏食なことかな……これは一緒にご飯食べに行く仲になる前に早く言わないとっていつも思うから」
「……なんだろう。べたべたと接触されるのを好まないことだろうか」
「え!? ご、ごめんね」
「いや、お前は最初からそこまで嫌ではなかったから言わなかったんですよ。ただ初対面でも抱き着いたりすることもあるのかと学びました」
「にゃるほど……」

二十八 Tell your partner what you like about them; be very honest this time, saying things that you might not say to someone you’ve just met.――相手の好きなところを伝えましょう。初対面の人には言わないようなことを正直に挙げましょう。
「お前のどこか抜けていて、あほっぽいところが好きですよ」
「えへ、えへへ……。僕はね、仁さんが時々意地悪だったり、手段を選ばなかったり、あとはたまにお口が悪いところも大好きだよ」

二十九 Share with your partner an embarrassing moment in your life.――人生で恥ずかしかった瞬間を相手と共有してください。
「いっぱいあるよ! みんなの前で間違えちゃうとか、怖く怒られてないのに泣いちゃったとか」
「私の場合は父にエーデルローズ主宰を解任された時だから、お前もいましたね」
「恥ずかしくないよ! 恥ずかしいなんて思わなかったよ……」

三十 When did you last cry in front of another person? By yourself?――最後に人前、あるいは一人で泣いたのはいつですか?
「ええ? いつだろう……あ、お見合いのことで泣いちゃった時かなあ。一人はあんまり覚えてないな……映画とかアニメ見てる時とか、ゲームですぐ泣いちゃうから、そういう時かも」
「私もお前の前で泣いたのが最後で、一人は覚えていない。……深く遡っても、少なくともマレと交際し始めてからは添い寝の機会が多かったから、一人では泣いていないと思う」
「じゃあ一人で泣いた印象深いことは?」
「……幼い頃は、独りで過ごす誕生日の度にめそめそと泣いていた気がします」
「もう泣かせないからね!」

三十一 Tell your partner something that you like about them already.――ここまでの会話を通して、相手の良いと思ったところを伝えてください。
「真面目にいっぱい考えて話してくれるし、聞いてくれるところ」
「素直で正直なところ」

三十二 What, if anything, is too serious to be joked about?――冗談でも言われたくないことはなんですか?
「冗談は嫌いです」
「仁さんの悪口!」

三十三 If you were to die this evening with no opportunity to communicate with anyone, what would you most regret not having told someone? Why haven’t you told them yet?――今夜、人知れず死ぬとしたら、誰に何を伝えていないことを悔やみますか? まだ伝えていないのはなぜですか?
「今夜~!? 仁さんに大好きって言い足りてないことを後悔するし、理由は言い尽くしても全然足りないからだよ!」
「ふふ、ははは。私も概ね同じだと思います。理由は、まだ最適な伝え方を模索中だから」

三十四 Your house, containing everything you own, catches fire. After saving your loved ones and pets, you have time to safely make a final dash to save any one item. What would it be? Why?――あなたの全財産がある家が火事になったとします。家族とペットを救出した後で、あと一つだけ何かを取りにいけるとしたら、何を取りに行きますか? それはなぜ?
「お前の安心毛布」
「え! なんで?」
「生まれた時から一緒なんだろう? それがこの家で一番価値のある物だと思いますよ」
「ぼくももうふって言おうとおもってた!」
「意見が一致して安心だな」
 
三十五 Of all the people in your family, whose death would you find most disturbing? Why?――家族の中で誰の死を想像すると一番不安になりますか? それはなぜ?
「仁さんだよ! 一番大好きだもん!」
「同じく。これは多分、そもそもこの質問が家族同士でやることを想定されていないからだろうな」
「はーびっくりした。ちょっと考えちゃってもう不安だよ」

三十六 Share a personal problem and ask your partner’s advice on how he or she might handle it. Also, ask your partner to reflect back to you how you seem to be feeling about the problem you have chosen.――個人的な問題を相手に打ち明け、アドバイスをもらいましょう。また、相手には同じ問題を抱えていたらどう感じるか想像してもらいましょう。
「……挙式で、有栖之園の人間にお前を見せることになるが、一体どんな反応をされるか想像もできない。母が興味を持たないということは、有栖之園家にとっても重要ではないはずだが……お前が嫌な思いをしないと保証できない」
「えっとね、僕たぶん、いつも仁さんのことしか見えてなくて……式の時なんて、仁さんがどんな格好でどんな顔してるかと、仁さんが何を言ったかしか気にしてられないよ。だから心配しないで」
「……そうか」
「それから、僕が同じことで悩んでたら……そうだな、怒り!って感じ。なんか、想像したら全然許せないな……」
「もういいですよ。マレの個人的な悩みは?」
「式で何か間違えちゃって、それで仁さんが悪く言われたらやだなあって思ってたんだけど……仁さんは全然気にしてないのがわかったから、悩みじゃなくなったかも」
「……そうか?」
「なんかやっちゃっても、やっちゃった~ってぼく笑うから、仁さんも『やっちゃったね~』って笑ってくれる?」
「ああ」
「じゃあもう、ほんとに全然心配じゃなくなったよ」

 ああ、楽しかったと言って、マレは水分を口に含み全身を上へ伸ばした。元の形に戻るのを見届けてから「最後にやることがあって」とマレの腕に手を添えた。
「四分間、黙って見つめ合うところまでがこのプログラムなんです。……長いし、気が進まなければやらなくてもいいんですが」
「僕がどんだけ仁さんの目を好きだと思ってるの!」
 食い気味に言った後でぶんぶんと首を振るマレにわかったと返事をして、ソファの上で向き合い、タイマーをセットしテーブルに置いた。「あ、仁さんが気まずかったら途中でやめてもいいからね」とマレが言い、私はもう一度わかったと言ってボタンに手を伸ばす。スタートする直前、マレが「待って」と私を止めた。
「そんなに長いこと見つめ合ってたらキスしたくなるかもだから、先にしていい?」
「どうぞ」
 子供の頬にするような軽いキスを受け取って、今度は私が「待って」と言った。
「前髪を上げてもいいですか」
「ふふ、どうぞ」
 右手で、マレの前髪を撫でるようにそっと耳にかけた。両目を正面から見つめて微笑む。マレはさらに笑みを深くして、耳のあたりに留まったままの私の手に自分の手を重ね、そのまま頬に当てた。しばらく見つめ合った後、一向にタイマーが鳴らないことを訝しんでスマートフォンを覗き込むと、タイマーはつけ忘れていたし、経った時間も四分どころではなかった。「やってしまった」と言って画面を見せると、マレは「やっちゃったね」と笑った。
 シェフがキッチンでディナーの準備をしている間、私たちは入浴を済ませることにした。雨が降っていたので自宅の室内のものになる。雨粒が窓ガラスに当たるのをゆっくり眺めたいとマレが言うので、浴室の照明を落として薄暗くし、足元とジャグジー内だけのライトをつけた。窓を流れる小さな水滴がそれぞれに光って星のようで、マレのお気に入りだと知っている。この子のふわふわの脳にかかれば、この雨も見事な流星群に見えるのかもしれない。腕を枕にして雨をじっと眺める楽しそうな横顔を確認して、私も窓へと目を向けた。……すぐに飽きて、私はマレの背に寄りかかり、体重を預けて目を閉じる。耳を当てれば鼓動が聞こえた。マレが満足するまでそうしていた。

 それから二週間と少し、梅雨前線はすっかり北へと押し上げられて姿を消していた。夏らしい晴れの日が徐々に増えていたこともあって、マレは予報を見ながらこの日をとても心待ちにしていた。すなわち、私の誕生日だ。今年はスパに予約を入れており、そのままホテルでディナー、宿泊と翌朝まで過ごす。ようやく私の贈ったセットアップで外出できると喜んでいた。マレがいかにリラックスし幸せそうにしていたかの詳細は割愛するとして、見事な浴場を貸し切って堪能した後、ナイトガウンでベッドに腰かけると、マレは文芸誌ほどの大きさのラッピングされた箱を持って隣に座った。
「今回は、のんびり過ごすのと別にもうひとつ誕生日プレゼントがあって……、でもこれは嬉しいかどうかわからないし、使わなくてもいいから、オマケってことで軽く受け取ってほしいんだけど……」
「開けても?」
「う、うん」
 まごまごするマレから箱を受け取り、リボンを解いて蓋を開けた。中には分厚いハードカバーの本が入っていた。表紙は無地の濃紺色、開くと中は罫線のあるノートで、ページ番号が振られていた。
「これは、見ればわかる通りノートでして……」
「有難く使わせてもらうが、どうしてこれを?」
 マレはあーとかうーとか言った後で、大変控えめな声で「本を書いてほしいなあって思って……」ともじもじした。
「本?」
「仁さんのエッセイとか、自伝が読みたいなって、実はずっと思ってて」
「ああ、本……」
 以前手紙のやりとりをした際に、文字が好きだとか文章が新鮮だとかとマレ個人に大好評だったことを思い出した。思えば昔から、雑誌や新聞のコラムの仕事は無いのか、本を出す予定はないのかとたまに尋ねられていたような気がする。そう頻繁ではなかったはずだし、たった今おぼえた既視感を手繰り寄せてみたところ、あったなあと朧気に思い出したくらいなので、その程度の雑談のようなものだったのだろう。面と向かって要望されたのは初めてだと思う。
「というか小説でもなんでもいいんだけど、仁さんが書いた文章がいっぱい読みたいなって。でもね、ふつうにノートとして使ってもらってもいいし、もし気が向いて書いたとしても僕に見せなくてもいいし!」
「いいですよ。どういうものになるか、現時点では何もアイデアは無いが、何であってもマレに読ませてあげます」
 快諾して、ノートとリボンを箱に入れなおす。驚いた表情のマレはしばし停止した後で「仁さんて、ぼくに、甘すぎる!」と叫んだ。私は無視して寝室の明かりを落とし、おやすみと声をかけて布団に潜った。自宅のものより小さいベッドだったせいか、マレはいつもよりぴったりとくっついて眠った。

 そういうわけで、私はこのノートに、結婚にまつわるあれこれを記しておくことを決めたのだった。あくまで個人的感情を記す日記のようなつもりで、マレや私が後に読み返した時、そんなこともあったとただ懐かしめればいいと思う。万が一出版される際には、専門家に依頼し私小説のような形式に直してもらうとしよう。

 さて、この七月半ばにはもう全ての招待状を送り終えていた。ルヰらは会場現地での打ち合わせ回数がいよいよ増えてきた頃か、装花やブーケ、テーブルコーディネート、ウェルカムボードなどの詳細が決まり、素材や設営に関する業者への発注が続々と済んでいた。元より何を選んでも品位を落とさない範疇から選択させているので、何を選んだとしてもそう心配はない。毎回ではないが、同席させている秘書課の部下からの打ち合わせ報告にも目を通していた。私は確認をする程度で、あとは披露宴での乾杯に際しての短いスピーチを考えるくらいだろうか。披露宴でさせるプリズムショーについては、構成の最終チェックとして確認をした。ここから当日までの間に小さな大会やライブでより高いクオリティに仕上げるよう指示した。
 私たちの挙式についても準備が始まっていた。とはいえ、式場は有栖之園家の持つ伝統的な教会に決まっているし、衣装についても有栖之園と関係の深い外商でタキシードをオーダーすることになった。自分たちの意思の介入しなさに居心地が悪く、ふとルヰや一条シンに同じような思いをさせていないか確かめるべきのような気がした。
 マレに頼んでそれとなく探りを入れさせると、それはもう大変に満足している様子だった。一般的なブライダルプランをよく知らなかったのだが、私が用意したものよりもずっと選択肢が少ないらしい。特に一条シンにとっては事前に調査し想像していたよりもずっと良いものになってきているらしく、ルヰ共々私にとても感謝していると聞いた。雇ったウェディングプランナーの功績が大きいことはよく理解できたので、追加報酬を検討する。
 仕事の合間に私たちの式場の下見をした。マレはその高い天井と大きなステンドグラスに目を輝かせて、パイプオルガンの実物を見るのは初めてだとはしゃいだ。何とかいう映画で喋るパイプオルガンが出てきて、その映画が好きなので嬉しいと言っていた。パイプオルガンが喋ったとしてパイプオルガンの音しか出ないのではないかと思ったが、混乱したくなかったので黙っておいた。教会そのものが珍しいのか、マレが大いにはしゃいでいるのが何となく面白くなくて、次の海外旅行ではその国の有名な大聖堂に連れて行って上書きしてやろうと思う。ドイツがいい。ケルン大聖堂で世界最大級のゴシック建築を浴びせてやるのだ。
「こんないいとこで結婚式できるんだねえ」
 明るい声につい嫌味を返してしまいそうになり、軽く頭をおさえた。まだ時間があるから少し座ろうと誘い、自身に向き合う時間を捻出する。
 私はマレに、この教会で式を挙げることを喜んでほしくないのだ。私がなんとなく嫌な気分になるように、マレにも嫌な気分になってほしい――本来はもっと自由に、良いものにできるはずだと思って欲しいのだ。私たちの結婚指輪のように、全てを自分たちで決めたより良い式のほうがいいと、不満を共有したいのだ。
 しかし、多くを望むのはマレにとって難しいことだと理解もできた。一条シンが喜んでいて私は安堵したわけで、与えられた選択肢に自由が無いことなど、元より自身の財力では選択できないほどに高級なものの前では霞んでしまうのかもしれない。彼のようにそもそもの想定ラインが低ければ尚更だ。マレは私に関して時に異常なほど謙虚であり、元はといえば挙式をできることすらありがたく、それだけで嬉しいと思っていそうだった。もっと望んでいいと言いたかった。私にできることは限られているのに。
 教会の中は静かで、落ち着いて考えをまとめることができた。祈るための場所なのだから当然かもしれない。厳かな雰囲気に影響されたのか、私が思考から意識を向けるまでマレもじっと黙って隣に座っていた。顔を近付けて小声で話しかける。
「全てを有栖之園に決められた式でも嬉しいですか。私たちで全てにこだわったものでなくても」
 私の言葉を一言も聞き逃さないように、文字通りしっかり耳を傾けて聞いたマレは、姿勢を正して少しの間思案した後で、内緒話のように手で囲いを作って私の耳元へ口を寄せた。
「あとでいっぱいこだわった二回目を、やってもいいなっておもう」
 思ってもみなかった言葉に驚いてついマレの顔を凝視すると、悪戯が成功したような表情でマレは小さく舌を出した。そういう手もあるのか、と考えるために正面を向き直す。
 そしてこの教会の、壁の白さが好きだと初めて思えた。
 ウェディングにまつわる純白のイメージは、十九世紀、イギリスのヴィクトリア女王が起源とされている。それまで色とりどりのウェディングドレスが着用され、中でもとりわけ赤が人気だった当時、その見事なレースを最も美しく見せる純白の重厚なサテンは瞬く間に女性のあこがれとなり、後の世に伝統を創ったらしい。初めは富の象徴だった。女王でさえ同じドレスを何度か着用するような時代であり、ウェディングドレスさえその一度限りというわけにいかない――漂白技術も未熟なままで美しい白を維持しなければならず、その苦労は想像に容易いだろう。やがて純真無垢を表現しているという解釈が加わり、技術革新によって一般市民へ広まるにつれ、清純、清楚、純潔、純粋、無垢……現在の印象へと定着していったのだ。
 白について考える時、嫌でも顔が浮かんでしまうのは私の異母兄弟である氷室聖だ。白の持つイメージそのもののような男で、ウェディングドレスのそれに誠実、完璧、高潔、祝福、それに神聖を加えた人物像がより近い。かつて純潔の花言葉を持つ白薔薇を背負ってプリズムキングに輝いた私を追うようにリンクへと足を踏み入れたくせに、嫌味なやつだ。私が主宰を務めていた頃にエーデルローズの頂点で誇らしく咲いていたジュネという白薔薇を彼は無邪気に手折った。私が父から継いだ赤い主宰服も、聖は自分がその座に就くと漂白してしまった。自分の眩さに陶酔し、その足元に生まれる影の存在に気付きもしない。己が光源だから、この世界は真っ白だと思い込んでいるのだ。彼は私の世界に突然現れてその光を撒き散らし、白いものを残らず奪い、白くあるべきと見定めたものは塗り替え、そして白は自分の領域なのだと言わんばかりの印象を焼き付けて去った――去らせたのだ、私の目がその暴力的な光で潰れてしまう前に。
 距離を置いて長く過ごした結果、私は聖という現象ではなく人物についてようやく考える機会を手に入れていた。あるいは亡くなった父に向き合う時間を持ったことで、聖という現象の擬人化に成功したというべきか……とにかく、以前ほどの身を守るような拒絶感情を露わにせず、挨拶や短い会話ができるようになっていた。
 きっかけは父の墓参りだった。父が眠るのは有栖之園ではなく、聖の母であり父が真に愛した女性、氷室マリアと同じ場所であるため、その海が見える丘へと赴く必要があった。移動だけで数時間かかるので仕事が落ち着くのを待って予定を立てたところ、二人に何の所縁もない日に行くこととなった。相談の上でマレに留守番をさせることにしたのは、やはり私以上に父や氷室マリアへ対し思うところがあるようだったし、私自身まずはひとりで向き合ってみるべきだと考えたからだ。父とは直接会話する機会自体が少なく、個人的な言葉をかけられたこともあまりない。世間が父に抱くエーデルローズ財団理事長、プリズムショー協会会長としての印象そのままが、私が父に持つ印象でもあった。改めてどのような人物だったのか、その功績や遺している言葉、人生を振り返り、記憶に残る父を分析することで少しでも知るためには、はじめからマレに甘やかされるわけにはいかない。何の意味合いも無い日取りを選択したこと、それからある意味での覚悟のようなものもあって、完全にひとりの時間を過ごすつもりでいたものだから、まさか現地で聖と居合わせることになるとは微塵も考えていなかったのだ。
 父が創設したエーデルローズの掲げる赤い薔薇、その花束を墓に供えて父が眠る景色を眺めてしばらく、背後から「兄さん」と呼びかけられて私は振り返った。目を合わせて、目に入ったものが間違いでないことを確認するために名を呼んでしまった。この法月仁をそう呼ぶのはたった一人しかいないというのに。この日聖はあのうざったく白い主宰服を脱いで、シンプルなネイビーのスーツを着ていた。私の持参した花束と同じようなものを持っていたので、私よりも父の人となりを知っているだろう聖にとってもこれが最適らしいと知った。
 父は、母の生家である有栖之園の墓には入ることができなかったと聞く。母自身が拒んだ結果なのかどうかはわからない。葬儀は喪主である母を中心に進み、その功績や知名度にふさわしい盛儀となったが、最終的に遺骨はひっそりと聖が引き取った。つまりこの場所を選び、その後の弔いを全て担当しているのが聖で、私は父とは縁を切ったも同然の立場だ。おそらく他の親族がここを訪れることも無かっただろうし、己の持参した薔薇以外が供えられているのを見るのも初めてだったのかもしれない。聖は目を見開いて、次第に歓喜するように細ませて、それから私の立場をようやく思い出したように落ち着いた表情になって「ありがとうございます。父も喜んでいると思います」と話しかけてきた。不貞を理由に死後絶縁を言い渡したも同然の家の人間が弔いに訪れているのだから、その罪を引き受けた人間が礼を言うのは当然なのだが、この日私はただの息子の一人として、あくまで立場は関係なくここを訪れている。母の意思や有栖之園の意思と受け取られては都合が悪かった。ゆえに息子同士の会話として、父が本当に喜ぶ供養とはこんなものではないと、次の大会への宣戦布告を返した。心はさほど乱れなかった。彼が白を纏っていなかったから、ただの人のように受け答えができたのかもしれない。
 予定が狂うことを嫌うため、ここでひとり過ごすことが叶わないのならもう帰ろうと思い立ち、返答を待たずに歩き出した。するとまた背中に「兄さん!」と呼びかけられて、今度は、聖がやはり直視できる程度に眩しくないことの最終確認のために振り返った。その数秒は私にとって「この男はこんなものだっただろうか」と思うだけの時間だったが、聖にとっては自分の呼びかけに応えるだけでなく言葉を待つ動作に見えてしまったようで、私に対しての数々の仕打ちをまるで忘れたかのように「今度、食事でもしよう!」と不遜な誘いを口にした。無論無視して、今度こそ振り返らずに私は帰路についた。あとで知ったことだが、聖は週に一日の頻度で訪れているらしい。私は七分の一のはずれを引いてしまったわけだった。
 それからしばらくして、私は聖と本当に食事をすることになった。墓参りで聖に遭遇したことはその日のうちに伝えていたのだが、秘書課を通じて聖から食事の誘いが来ている件については数日思案してからマレへ相談した。するとマレは、今までなら絶対に嫌がってたことに迷うならそれはやったほうが良いかもしれないと、控えめに賛成した。眩い白ではない聖が少し気がかりだったこともあって、私とマレ、聖とジュネの四人での食事会が開かれることになったのだ。
 お互いパートナーの隣に座り、私の向かいにはジュネ、マレの向かいには聖という席順になった。主にマレと聖が近況報告をはじめ雑談をしていて、覚えが悪く感性もズレた聖のフォローのためにジュネが時折会話に参加したり、マレの言葉に私が相槌を打ったりする。やはり聖にそう痛いほどの白さは無く、ジュネも柔らかく笑っていたので想定していたほどの緊張感は無かった。マレとの会話を聞きながら、この男は確かに世間知らずで浮世離れしたところがあるものの、人並みに焦ったり怒ったり落ち込んだりもする、ただのとぼけた人間なのかもしれないとほんの少し思えてきた。
 とはいえ、それだけだった。その後も幾度か食事の誘いはあったが断っている。マレは聖と連絡先を交換していたため、何か気に障るのか、直して欲しいところがあるのかといった質問がマレ越しに寄越されたこともあった――マレは「答えたくなかったら『聞けないよ~』って返事しておくね」と言ってくれた――が、これには「お前のことが苦手でどう接したらいいのかわからないから、俺にコンタクトを取ろうとしないで欲しい」と返信してもらった。現在まで、聖は私の要望を聞き入れている。
 聖を拒絶し続けた私の人生においても、白を慈しむ機会はあった。その白――ルヰを初めて見た時、彼が居れば聖が奪ったものを取り戻せると思った。白い駒と白い駒のリバーシのように聖の陣地を私の白に染める。彼の敷地に踏み込む資格を手にしたような気がした。実際のところ事はそう上手く運ばなかったが、聖に奪われず、私に寄り添う月の光のようで居てくれたルヰのおかげで、無垢な白を慈しむ心を持てたのだろう。
 マレと並んで座りぼんやりと十字架を見上げながら、穢れを許さない圧さえ感じる全面純白の内壁を秩序的で好ましいと思っている自分を見つめていた。きっかけはルヰと出会ったからかもしれないし、聖とジュネと共に食事をしたからかもしれないし、この白だけが全てとは限らないとマレが気付かせてくれたからかもしれない。おそらくは、私が五か月前に微塵もわからなかった結婚の幸せがこの白なのだ。きっと誰もが自身の結ぶ愛こそを永遠だと信じたくて契約をする。決して穢されることのない神聖で誠実なものだから、生まれたままのように純真無垢に違いないと祈っている。ヴィクトリア女王はそれまで誰一人として予想だにしなかった全く新しい価値観をもたらしたのではなく、ただ皆が漫然と持っていた祈りに正しい色を塗ったのだろう。祈りが現実になるような特別感こそが結婚式で得ようとされる幸せの正体だ。
 帰宅してから、ルヰと一条シンの式について個人的な見直しをした。外向けではなく彼らにとっての「非現実的な特別感」が現時点で達成されているのかどうかが気がかりだった。そして一通り確認し終えてから、私に理解できそうもないと思い知る。おそらく誰にも理解できないだろう、当人たち以外には。
 結局翌日、ルヰに『幸せか?』と簡潔なメッセージを送った。利便性を考え私が与えたものの、その類の機器をあまり使わないルヰだから、返信が本日中に来ることは期待していなかったが、その日の夜に通知が鳴った。寝支度を整えた上でマレとゆったりベッドで過ごす時間、私は読書に集中していて、マレはスマートフォンをいじっていた。布団の上で通知音と共に勝手に点灯した画面をマレが覗き込み「ルヰからだよ、珍しいね」と私の袖を引いて、遅れて視線をやると、そこにはこうあった。
『とても』

 私たちが式で着用するタキシードは無難なものにまとまった。揃いのデザインで、純白にネイビーブルーの挿し色は指輪のブルーサファイアを意識している。指輪を選んだ時にサムシングブルーの話を聞いていたマレは、青を堂々と身に着けて良いことを覚えていたようで生地選びでも意気揚々と青を眺めていた。ウェディングドレスに合わせるタキシードならば色は遊んでも良いかもしれないが、私たちにはドレスが無いぶんどちらも白を基調としたものにするべきではないか、と伝えるとすんなり納得して、青は挿し色に落ち着いた。色味を吟味するマレの横で、生地同士の相性やどれが指輪のブルーサファイアと合うかについて私が多少口を出すと、無知を自覚するマレは従順にした。最終的にオーダーを確認するとマレは「かっこいいのになるね」と喜んでいたので、無難という言葉は飲み込む。普段こだわっているユニークな私服や私物については「かわいい」と形容しがちなマレにとって、この「かっこいい」はフォーマルな型に収まった中での最上級の誉め言葉といえる。つまり、我々の所感は概ね同じだったということだ。
 ルヰらの衣装もこの頃には出来上がっていて、私は確認も兼ねて一度目の試着へ同席することにした。エーデルローズの敷地内に上がり込むのは嫌だったので、新郎二人とデザインを担当した西園寺レオ、それから衣装制作会社の担当者をこのビルに招く。前回と違ってドレスルームだったせいか、二度目のはずの一条シンは既視感を覚えるほどに縮こまっており、その隣に座る西園寺レオとシンクロしているようだった。この広々としたドレスルームには複数人が並んで衣装の相性を確認できる大きなミラーはもちろん、ここでヘアメイクが済ませられるよう設備も完備していて、ライティングの細かな調節だけでなく自由に太陽光を取り込める大きな窓と、ミーティングのための場所も用意されている。試着室やミラーがよく見える位置に置かれた三人掛けのソファにぴったりと、一条シンを挟んで西園寺レオとルヰが座り、私はローテーブルを挟んで向かいにある同じソファの端に座っていた。マレが担当者をここへ連れてくるまで、私たちの間に一言の会話も無かった。
 ノックの音で大げさに肩を震わせた一条シンと西園寺レオは「お待たせしました~」と朗らかに入室したマレを見てあからさまに胸を撫で下ろしていた。このいかにも可愛らしい、頭一つ分ほどマレより小さい背丈の青年にもマレは舐められているらしい。長身だし、顔の作りはむしろ冷たい印象なのに、何がそこまで人畜無害そうに思わせるのか多少不思議に思う。やはり姿勢や話し方、表情に仕草といった、私が威厳を損なわないためにと気を配る全てがなっていないとこう扱われるのだろう。新郎たちが着替えている間も西園寺レオはマレと談笑していた。かちこちになっているのを可哀想に思ったのかマレがやや積極的に話しかけていて、それに答える形で少しずつ口数が増えていくのを聞きながら待った。
 アイボリーのフロックコートに赤のベストが映える。マレと西園寺レオがわあと歓喜の声を上げて迎え、一条シンは照れ笑いをした。遅れてもう一つの扉が開くと、高潔な白が形を持って立っていた。スペンサージャケットに上品なピンタックシャツ、そしてスラックスの上からコルセット付きのフリルロングスカートのような装飾を身に着けたルヰが立つ。ふんだんなフリルが足元までを覆い、シルエットはスレンダーラインのドレスに見えるが、前が開いているのでパンツスタイルだと一目瞭然でもある。全身を輝く純白に包んで、ベールからは桃色に染まった頬が覗く。その美しさに言葉をかけようと口を開いた瞬間、マレがそっと私の手を握って制した。一瞬遅れて一条シンが声を発する。稚拙な言葉で褒め称えられ顔をほころばせるルヰを眺めながら、マレは私の耳にそっと唇を寄せて「この時間はパートナーとたっぷり過ごさないと」と囁いた。二人はお互いの姿を幸せそうに見つめながら感想を言い合う。赤は一条シンの瞳の色を気に入るルヰの要望らしく、身に余る衣装を着てしまったと自信無さげだった一条シンも、幸せそうに喜ぶルヰの反応を受けて満足したようだった。
 頃合いを見て、担当者が着心地等を尋ねる。西園寺レオがデザインの段階でイメージしていたものと差異はどうか、改めて着用してみて浮き出た些細な課題の確認をして、微調整する点をまとめてこの日は終わった。大きな問題も無く、このまま進めさせて良いだろう。次回以降は同席しないことを伝えた。
 客人をマレと共に見送り執務室へと戻る道すがら、私は歩きながら耐え切れずに「どうだった」と話しかけた。
「二人ともとってもきれいだった!」
「……衣装ではなくて」
 私の少なすぎる言葉にマレは疑問符を浮かべたような顔をしていた。言いたくなかったのではなく、ただどう言えば良いのかがわからず言い淀む。エレベーターに乗り込むまで言葉は見つからず、扉が閉まるのを待って続けた。
「ルヰや、一条シンの幸福に水を差すような振る舞いは無かったか」
「仁さんは誰のことも不幸にしないよ」
 つい笑ってしまった。「それは嘘だ」と言うとマレは小さく「てへ」と言った。
「ルヰだけじゃなくて、シンくんのことも、レオくんのデザインも尊重してて、優しかったよ」
 そう少なくない回数、マレは私を「優しい」と形容してきた。好意を率直に伝える言葉ほどの気安さではなく、何らかの限定的なトリガーがあってのものだと理解できる程度の頻度ながら、私にはずっと、どうしてマレが優しさなんかを感じるのかわからなかった。以前に尋ねたこともあったが、こう言ったからやこれをしたからと挙げられた言動にはどれも私なりに別の理由があったので、それらは優しさではないと訂正したものの、マレはあまり真に受けていない態度で「仁さんにとってはそうなんだろうけどね」と話を終わらせた。私は今こそが再びそれを尋ね、それについて会話すべき好機なのではないかと思った。
「どうして俺を優しいと思うんだ」
 疑問を口にした時、丁度エレベーターの扉が開いたので、私たちは答えを得ないまま執務室のソファに腰かけた。マレは「それの答え、一番良い言い方をずっと考えてた」と笑った。
「仁さんからの思いやりを感じるから、だよ」
 マレの言い分はこうだ。かつて私たちが出会いたての頃、私が何の配慮もなくマレに話しかけると時折妙にびくびくするので、その変な態度はなんだと指摘した。マレは、荒っぽい口調は少し怖いのだと言った。面倒だった私は敬語をマレ相手にも増やすことで対処した。元より敬語で話す機会のほうがずっと多く口にも馴染んでいるので、苦労も何も無いただそれだけの話なのだが、マレにとってはこれが「優しい」なのだという。
「その時から仁さんがいつも、ぼくを怖がらせないようにって思いやってくれてるの、優しい以外になんて言えばいいの」
「あの時はただ目ざわりで面倒で、今はただ習慣になってしまっただけだ」
「じゃあそれは、それでもいいけど」とマレは頬を膨らませて不満の表情を作った。
「ルヰとシンくんのハッピー感を壊さないように思いやるのも優しさじゃないの?」
「式の総監督を引き受けたんだ。自らの振る舞いが仕事の汚点になるのを避けることは当然だろ」
「じゃあそれも、それでもいいけどね」
 でもね、とマレは私に向き合った。
「僕にとってはそれ全部、全然簡単でも当然でもないし、人生振り返ってもそんなにもらった覚えがないくらいのおっきい思いやりだよ。だからいつも嬉しいし、ありがとうって思ってるの」
 膝の上に置いていた私の左手を取ったマレは、指輪を親指でなぞってから手の甲に口付けて「それだけはわかってくれる?」とねだった。私はそのまっすぐな眼差しからゆるりと目を逸らして頷き、マレにとって私がとても特別なことは理解していますよ、と返した。
「ルヰにとってもそうだよ。仁さんの思いやりを受け取ってる。そうじゃなきゃ頼らない」
 口をぐっと結ばなければ、ルヰを貶めることを言ってしまいそうだった。私が持つ権威は理解している。使うことができるものの価値も。それらそのものではなく、それらを快く捧げる好意を期待されている――などという戯言は触れるだけで崩れてしまう薄氷のようだった。ルヰは従順で、多くを望まず、悪意なぞ持ち合わせたことも無い清廉で無欲な人物だとわかっているのに。信頼が揺らぐのは他でもない私自身の問題だった。自身の弱さを受け容れることができないあまり、ルヰまでもを卑しい者に堕としてしまいそうになる。慎重に言葉を選んでは捨て、言いたくないのに口をついてしまいそうになる悪意の濁流から、砂金を探し当てるように自分の心を探した。
「……優しさとは、安心や温もりを得るために自分を差し出す弱さに等しい」
 それでもいいとマレは言わなかった。代わりにもう一度、握られたままだった左手の甲に唇の感触がした。この子は全く、どれほど澄んでいたらそんなにも心のままに振舞うことができるのだろうと思う。たとえ躊躇いや葛藤があったとして、それはきっと私のように情けないものではなく、迷いなく拾い上げた原石を磨き、どうカットして贈ろうか思案するような歓びに違いない。私は頭をマレの肩に押し付けて「私の弱さを知るのはお前だけでいい」と呟いた。

 日の始まりと終わり、風呂のため外に出ると時折感じていた心地よく乾いた風が、いつの間にか冷たさを伴って高くなった空を吹く。プロジェクトの完遂をひと月後に控えた仲秋の頃、ついに結婚報告のための記者会見があった。会見で露わになった二人の仲睦まじさに加え、豪華な披露宴の一部を放映すると発表され、世間は浮足立って話題にした。憶測が飛び交い、彼らの過去映像をふんだんに使った特集が組まれた。最終確認と取材に応えながら私自身の式の準備も進める。心から嬉しそうにする二人を見るたび相反する感情が渦巻いた。大勢に祝福されるための場を整えたのは私だが、こういったある種の幸せを一番与えたいあの子に贈らないのも私だ。私にこれができるのだという充足感と共に、何もできない無力感があった。マレが何と言うかはわかる。私に与えられるものなら道端の花だって喜ぶのだから。
 全てにおいて滞りないと母に報告できるのは好ましい。特に、私の言葉だけでなく成果を直接献上できる時は。情報の解禁に段階をつけたことが上手く働いて、世間の披露宴への期待が日に日に高まるのも見て取れた。周囲の反応の大きさは予想以上の効果があり、母の耳にも好評が届いているという。プロジェクトの成功が見えてきた安堵でミスを犯さないよう、今一度姿勢を正す思いで母に頭を下げた。母は去り際に立ち止まり、付き人として立たせていたマレに視線を止めて「今日は、婚約者でなく付き人なのね」と声をかけた。マレが無邪気な声で「婚約者兼付き人です!」と返すと、驚くことに、母は聴いたことのないほど柔らかい声で「そう」と言った。驚いて顔を上げるとドレスの裾が扉の向こうに消えるところだった。扉がきちんと閉まるのを見届けてから勢いよくマレと顔を見合わせる。
「笑っていたか?」
「良い報告だったからご機嫌麗しゅうだったのかな?」
「……言いたいことはわかる」
 予定外の盛り上がりは仕事を増やし、当日までの日々は実に慌ただしかった。不躾な著名人の席を増やしたり、情報を秘匿するために手間をかける必要が出てきたり、取材も時間の許す限り受けたのだ。前日に設営が済んだ会場を確認し、会場スタッフ、演者、そして新郎たちとその家族と共にリハーサルを済ませ、改めてメディアが撮影する範囲を説明した。さらにこれが稀に見る大きな式であること、世間が二人を大いに祝福するその時を心待ちにしていること、私自身も二人を祝福する気持ちに違い無く、明日、最大限の祝福を贈るために尽力する旨を伝えた。やや大仰な挨拶は当人らへというより、一条シンの両親やその場に居たスタッフへのパフォーマンスの意図が大きかったが、どうやら思わぬ人物へと致命的に当たってしまったらしい。
 式で披露するプリズムショーのリハーサルには無論エーデルローズも参加していた。つまり、主宰である氷室聖もだった。私の挨拶が終わり、各々が会場を後にしようというその時、聖は「仁!」と大きな声で呼びかけながら私に駆け寄って、そして何を言うでもなく恍惚とした笑みを浮かべていた。胸がいっぱいで言葉に詰まり、何と言えば良いのかわからないような、情けない顔だった。私はもっともらしいビジネスの顔を張り付けて声をかけた。
「どうかしましたか、氷室主宰?」
 聖はハッとした後に頬を染めて笑顔になって「いいえ、法月総帥。素晴らしい言葉でした」と握手を求めてきた。聖の手を嫌悪に任せて握りつぶさない程度の、適切な出力の力加減を腕に伝達してから応じる。自分を制するのに精一杯で言葉は出なかった。しかし礼儀なぞを気にしない聖は手を握ったまま、まだ足りなかったらしい言葉を紡いだ。
「俺も同じ気持ちなんだ。仁と共に、彼らの輝かしい未来へ祝福を贈れることが、こんなにも嬉しい」
 断っておくが、聖と共に祝福できることが嬉しいなんて、私は一言も言っていない。
「明日が待ち遠しいよ。シンに教会のほうも見せてもらったけれど、見事なプリズムの女神像だった。きっと祝福をくださる」
 それはエーデルローズの、お前のあのボロ教会でと言われるのを避けるために誂えたんだ。
「それから兄さんの式の話も聞いたよ。お祝いを、」
「もう十分だ」
 弾くように手を離し、暴言を吐かないためにそのまま口を押さえた。どうにか「約束があるので」と声を絞り出してその場を去ろうとして、腕を強く掴まれた。
「ただ言いたかったんだ、おめでとうって」
 振り返ることはできなかった。
「聖さん!」
「兄さんの幸せが心から嬉しい」
 マレの制止は意味を成さず、聖の口から放たれた屈辱的な言葉はしっかりと私に届いた。私の代わりに出入り口で新郎のご家族やエーデルローズ生を見送り終え、小走りでそばまで駆け戻ってきていたマレは、私を掴む聖の手を外すよう控えめに促して、腕に寄ってしまった皺を整えた。肩越しにそっと背後を覗うと、興奮から醒めた様子の聖が「引き留めてしまってすまない」と迷子のように目を伏せるのが半分見えた。マレがすぐに「いいえ! 情熱的なお祝い嬉しかったです」と晴れやかな声で――顔は見えなかったが、きっと表情も青天のような笑顔だっただろう――答え、多少ひりついてしまった空気を完全に戻した。私はようやく歩き出すことができて、後方で「もちろん君の幸せも」「ありがとうございます!」と和やかに会話しているのを聞きながら車に乗り込んだ。聖の処理を終えたマレがまた小走りで追ってきて隣に座り、運転手が扉を閉め終えるのを待ってからマレの胸倉を掴んで少し乱暴に口付ける。多少驚いた顔はしていたが、私の八つ当たりに慣れたマレは抵抗もせずに大人しくしていた。
「ん、なあに、情熱的さを競ってる?」
 解放すると、我儘を言う子供を宥めるような顔でそう言われた。自分のこめかみを押さえて「馬鹿を言うな」と呻く。
「お祝い嬉しいって言っちゃってごめんね」
「……それはいい。俺が言うべき言葉だった。明日は言えるようにしないと……」
 走り出した外の景色に視線を向けるが、窓に薄く映った自分を曖昧に眺めてしまう。視野が広がらない。まだ動揺しているらしかった。あの男の無神経さは一体何なのだろう。一度食事会に応じてやったせいでああいう馴れ馴れしい態度が許される間柄だと勘違いしたのか?
「僕がこう、お邪魔しようか? ちょっとお話が~とか言って、仁さんを連れ出したりして……うぅん、上手くできる気がしないな……」
 真剣な顔つきで唸るマレが窓越しに見えて、ふっと口が緩んだ。視線をそのままに「自分で対処するから気にするな」と言って頬杖をつくと、マレがぐぐと背中に体重を預けてきたので、潰される前に振り返って頭を撫でてやった。本人も私に対して過保護気味だと自覚しているのだろう、しばらく不満気な態度はとっていたもののそれ以上口を出すことは無かった。私が自分でどうにかするしか無い問題だと互いによく理解していたのだ。
 氷室聖は本当に無神経で、他人の気持ちなど微塵も理解できないような男だ。お花畑のような世界観で生きているから、幸福に似つかわしくない感情や出来事はあいつの中には存在しない。それなのに、そんななりでこの私のことを何一つわかるはずがないのに、全部知ったような態度で話しかけてくる。あいつの世界に勝手に結ばれた虚像の兄を押し付けられるような思いをするのがずっと嫌だった。己の内にある苦悩が全て無意味に感じるほどの能天気な態度が嫌いだった。私の身を剥ぐように全てを奪っておいて、まるで当然のような顔で笑うのが憎かった。脳裏で聖への怨嗟を吐いて、吐き尽くして、それでもこれまでを無駄にしないためには、聖の求める兄の顔で接するべきなのだと自分を納得させた。……もしも明日また避けられない接触があれば。
 思い返せば、同時進行していた私の式も、披露宴が無いぶん決めることは少なくそう手間取らなかったが、その存在はずっと重いままだった。聖に言われたこともそうだが、適切な対応が出来なかった自分自身も腹立たしい。想定外に重なった負荷を癒すためこの夜は入浴時間が随分と伸びた。浮力で軽くなる手足を伸ばせば、底から噴きあがる気泡が身体の輪郭をぼかすような感覚を連れてきて心までもを安らげる。耐え忍ぼうとするあまり固く緊張してしまった身体のほぐしかたは、私の隣で今にも溶けそうなほど脱力したマレに教わったものだ。くにゃくにゃのふにゃふにゃになってただ浮かぶのを好むマレが、水中でも背筋をぴんと伸ばしていた私に、お風呂の何が好きなのかと尋ねてきたことがあった。何よりも寛げるからだと答えたように思う。マレは大袈裟に同調して、もっとくったりすると気持ちいいよと、自らの寛ぎ姿勢と感覚についてああだこうだと話した。マレは本当は、何にも触れないところで手足を投げ出して浮かび、目を閉じて、無になるのが一番好きらしい。身体の輪郭がわからなくなって、水に溶ける砂糖のようになりたい、らしい。半分も理解できなかったが、できる範囲で参考にして力を抜き目を閉じれば、気泡に全身を絶え間なく撫でられる感覚だけになり、身体の輪郭は確かに曖昧になった。これより強いものに浸った結果があれかと――時折見かけては揺り起こしている――浴槽でうとうとするマレの姿を想起した。これ以上なくリラックスしているのはわかったが、危ないので引き続き発見次第起こすだろう。
 たっぷりと休息の時間を取ったのに、それでも手を動かしていないと余計なことを考え込んでしまいそうだった。自分の髪を乾かし終え、隣でもたもたしていたマレに声をかけて、ドライヤーを手にしたまま寝室へ向かった。ベッドに腰かけさせて、その後ろで膝立ちになってマレの髪に温風を当てた。ブルーブラックの癖毛をかきまぜられたマレは、眠たそうに頭をゆらゆらさせていた。布団をかけてやる頃にはあくびが止まらない様子で、目を瞑ったまま「あした、がんばるからね……」と口をむにゅむにゅさせていた。隣に寝転んで、寝顔を眺めながら耳の形を確かめるように撫でたり、頬や鼻を指先でつついたりして気を紛らわせながら眠りが訪れるのを待ったが、生憎と脳には休む気が無いようだった。結局私は深く布団に潜ってマレの胸に耳を寄せ、心音を聴きながら目を閉じた。いつの頃からかずっと、これが一番よく眠れる。

 如月ルヰと一条シンの結婚式がどれほど素晴らしいものだったかは、あらゆるメディアに取り上げられた今となってはそう言葉を尽くす必要もないだろう。挨拶やショーだけでなく、衣装や内装、料理についても大衆の注目を浴び、さらに参加者の一部が自身のSNS等で写真や感想を発信したことでより加速した。関わった企業がここぞと宣伝し、売り上げにも大きく影響があったと報告を受けている。誰の目にも明らかに大成功だ。
 新郎当人らにとっても期待通りの式を用意できただろう、と思う。式の間ずっと二人の笑顔は絶えなかったし、直に感謝の言葉も貰った。マレも一条シンの友人らから感謝をたくさん伝えられたと聞く。
 聖には、初めにこちらから挨拶をしてそれとなく忙しい旨を伝え、以降は話しかけられそうになっても会釈をして傍らのマレに話しかけたり、別方向に歩き出したりと徹底的に避けることで対処した。鈍いやつだからそうとは気付かぬままだろう。心乱されるようなことは何も起きず、これといったトラブルも無く、極めて冷静でいられた。詳細に思い出すほど、失敗だと判断する要素を探し出すのが難しいほどだ。……本来、個人的な式中の出来事を記すべきなのはわかっているのだが、会話のほとんどが仕事についてだったので特筆するようなことは何も無かった。主役の二人の顔が曇らないのを自分の席から時折眺めて確認し、私の視線に気付いたマレが「良かったね」と言うのに頷いた。それ以外は概ね、挨拶、確認、指示……それから母への報告の整理をしていた。
 約八か月に及ぶ此度のプロジェクトを終え、初めに感じたのはようやく日常が戻ってくる安堵だった。それから少しの達成感。初めは全く気が乗らなかったのにも関わらずこの成果だ、役割を当然に正しくこなす以上の手ごたえを感じるのも無理はないだろう。もちろん、母には慢心を悟られないよう細心の注意を払って成功の報告をした。迷いも戸惑いも不安も持たず、ただ完璧に役割を果たすべきだからだ。
 このプロジェクトと比べれば私たちの挙式はとても気楽なものに違いない。規模は小さく手順も少なく、懸念点など無に等しい。午前中に式を挙げて午後には婚姻届を提出し終えているだろう。簡単な仕事のはずなのに、理由もわからないまま気が重い。
 己の御し切れない緊張感を手繰り寄せる時、その源にはいつも両親がいる。特に幼い頃は失望の表情を浮かべる両親に見つめられる恐怖が強くあって、自己研鑽の原動力だったように思う。しかし今回は違うと確信していた。マレを紹介した日に「興味は無い」と言い放った母、あれこそがかつて恐怖していた眼差しなのに、何度思い返しても私は安堵を一番に感じていた。マレとの挙式に母が何の期待も寄せず、マレを選んだ私に失望していたとして、全く構わなかった。つまり母にとってマレは何の役割も持たないわけだ。沿うべき形、役割としての正解も何も無いのだから、マレの在り方が有栖之園に脅かされることもない。マレが苛立っていた、母による私を評する言葉は、私にとっては「マレを失うかもしれない」という恐怖をすっかりと解消してくれる言葉だった。刻一刻と迫る挙式への気の重さの要因が、母でも亡くなった父でもないことは明白だった。
 
 蓼丸という名を美しいと思う。口にした時の音が、マレそのものの形をしていると思う。これを法月にしてしまって本当にいいのだろうかと、未だに躊躇う気持ちがある。しかし私が蓼丸に婿入りするという選択はできない。法月仁という名を捨てて別の人間へなってしまうのに等しく、私は私であるための要素の全てを手放すことができない。私自身が忌避することだからこそ、マレの名を変えるのは、何か取り返しのつかない過ちになるような気がするのだろうか。
 なぜに結婚するのだろうと思う。内縁関係のままで充分に幸福なのに現状を自ら手放して、私はどこを目指しているのだろう。マレのことも私のことも、誰にもなにも理解されなくて構わないのに、どうして苦痛を伴いながら他人に認めていただくための儀式の準備をしているのだろう。一体何を得ようとしているのだろう。
 漫然とした不安の行き場が無くて、私は諦めてマレへと打ち明けることにした。いつものように寄り添って、お互いの呼吸と鼓動しか聞こえないほどの距離で眠りにつく前、ただ「不安だ」と言葉を落とした。マレは緩慢に私の後頭部を撫で、そのまま輪郭を確かめるように頬を撫でて、涙を拭うように親指で目元をなぞり、前髪に唇を寄せて「僕が絶対幸せにするよ」と言った。
 そして私ははっきりと理解する。思えばそれはずっとあった。私はこの子に、ひたむきに真っ直ぐに、際限なく、身に余るほどの愛情を注がれるに値する人間なのだろうかと。似たような愛情深い人間と相互に想い合えたならこの子はもっと幸せだったろうに。私がこの子からもらう幸福と同じものを、私と一緒にいるせいで、この子は永遠に得られない。愛も幸せもこの子にもらう形しか知らないのに、私は同じものを与えることができない。
 マレを「私が絶対幸せにする」と言えない人間であるという、自己嫌悪が不安の正体だった。
 言葉を返さないまま曇った表情の私の顔を覗き込んで、マレはややばつが悪そうに「こんな言葉だけじゃなんにもならないか」と目を逸らした。
「参考になった」
「そーお?」
 私の返事を全く信じていない声色だった。マレに対する不信は不安の原因にほんの少しも入っていない――不信感自体がそもそも皆無なのだが、自身の心への理解が及んだのはたった今であり、ろくに説明はできそうもなかった。しかし何かしら具体的な不安について語らないと、マレはしばらく私の不安の正体とその解消法を探って、する必要の無い自省を繰り返してしまうだろう。少し考えて私は話し出した。
「名前が変わるのは怖くないですか」
「え。怖かったらそもそもプロポーズしてないよ」
 なんともない気軽さでマレは言った。
「僕は十八歳の時からず~っと法月になる気持ちの用意できてる」
 思い返せば確かにそうだ。初めから籍を入れることについて「仁さんが要るなら」してもいいのだと言っていた。私がもし入籍を決断していたら、当時のマレは二つ返事で了承したことだろう。……名前が変わるのを怖がっているのは私だ。
「……私は少し怖い。蓼丸の名が失われるのが」
 こんなに美しい名前なのに、とは言わなかった。
「んー、じゃあSNSとか、活動名は変化なく蓼丸マレにしとく? お仕事でも旧姓使うようにしたり」
 私がマレの名前を理由に心から結婚を考え直したい気分になっていたことなど知る由も無いのだから当然なのだが、場違いなほどに明朗な声だった。黙っている私に気付き不安そうに眉を下げてマレは言った。「それともあんまりそういうことじゃない?」
「お前にとっては苦労して、時間もかかってやっと手にする名なのにそんな扱いでいいのか」
「あは、もう。仁さんが不安なのはぼくがちゃんと幸せかどうかなの?」
 あのね、とマレが言う。
「ぼくはね、仁さんがいつも『マレ』って呼んでくれるから、それで充分すぎるくらいずっと幸せ。自分の本当の名前の在り処より、仁さんがぼくをどう呼んで、どんな風に見つめて想ってくれるのかが重要だから。法月になんとなく大きな憧れもあったけど、それより家族になるため仁さんがこんなにたくさん頑張ってくれて、僕の幸せをたくさん想ってくれて、愛されてるっていつも感じてる。こんなに幸せなことないよ」
 マレは笑顔で続けた。
「だからね、なんにも心配することないよ。周りが認めてくれるかどう扱ってくれるかとかが全部些事に思えるくらい、仁さんからもらってるもので、ぼくって満たされてるから」
 私はマレをしばらく見つめてから、静かに頷いた。
「ちょこっとでも安心できた?」
「うん」
 ほっとした表情のマレにもう一度小さく頷いて見せてから、私は眠るために目を瞑った。なんだかたまらなくなって、マレに勘付かれないようひっそりと、ほんの少し涙を零した。
 私は、マレで満たされることはない。一時的ではなく本質的に何かに満ちる、満足するという感覚がずっと理解できない。なんでもそうだ。プリズムショーだってそうだった。飢えるままに上へ上へと進み続けていたのは、ただ足元に広がる底の無い孤独感を見つめる勇気が持てなかっただけだ。孤高であることや、父の遺したものへ尽くすことに存在意義を見出そうとしても、根底にある虚無は埋まらない。自分を空の植木鉢のようだと思う。水を注いでもすべて底穴から流れ出て行って何も残らない、空っぽの印象――自覚したばかりの自己嫌悪は制御を失ったように容赦なく私自身を襲った。私は適切に与えることも受け取ることもできず、愛について欠陥を抱えていると評さざるを得ない人間なのだ。これまでの人生で初めて他者と長い時間をかけて深く関わった末、進むにしろ退くにしろ必ずマレを傷付けてしまう状況に追い詰められてようやく、初めて自身の不誠実さを自覚した愚者だった。
 さて、不安の正体を捉えたことで気分が幾分かましになったのは、すっかり空気が乾燥し、重たい寒気がぴんと張り詰めた頃だった。露天風呂から幽天を眺めては刻々と迫るその日を想う。起源に思い当たらないほど昔からある自己嫌悪、もしかしたら物心と同時に芽生えた可能性さえある――つまり悩んでも仕方のないことに苦痛を感じていると自覚した途端、なんだかどうでもよくなってしまった。自分でもらしくないことは理解しているが、おそらくマレのお気楽な性質に、長い時間をかけてほんの少し影響されたせいだと思う。私が罪悪感をおぼえるほど不相応だと感じてもマレはもうすっかりと、どうしようもなく、私のそばでないと幸せになんかなれないいきものであることは、誰にも変えられない事実だ。与えられるものと同じだけに到底足ることは無いと知りながらも、私はできる範囲でマレに返せるものを模索し続けるしかない。到底受け取り尽くせないと知りながらも、私はできる範囲でマレに向き合い続けるしかない。成果を誓うことはできないが過程なら――「愛し、敬い、慈しむこと」なら誓えると気付いて、私にも最低限の資格があると思えた。
 肌寒さを感じるのに比例してマレの睡眠時間は徐々に増える。休日かどうかに関わらず起床時刻が毎日同じ私に合わせてマレも起きているのだが、就寝時刻も毎日同じ私とは違い、マレは暖かい時期に比べて就寝時刻が早まっていく。この頃はもう私の就寝の二時間ほど前には眠たそうにしている。さっさと寝室に行かせて私は私で過ごせばいいのだが、場所を選ぶような趣味もないため、元より眠る前の時間はマレが何かで遊んでいる傍らで仕事か読書なんかをすることが多かった。ゆえに一緒に寝支度を整えて同じ布団に入り、丸まって眠るマレの隣で枕に背をあずけて、大抵は暖かい時期と同じように過ごしている。睡魔に負けそうなマレは、話しかけるとぼやけた頭のままで一生懸命に答えようとするのが面白い。私を置いて先に眠るのか、なんて意地悪を言うのもいい反応が返ってくる。それでも頭を三度も撫でればすうと意識を飛ばしてしまうのだから、単純な愛玩動物のようだった。
 その日、私は発売したばかりのミステリー小説を手に取って布団に入った。私の読書は主に勉強のための実用書や専門書ばかりだが、何らかのわけがあってそれ以外の本をいただくこともあり、贈り主と次にやりとりをする際に軽く言葉を添えるため、なるべく早く目を通すように努めている。フィクションを鑑賞する視点がどうにも俯瞰的で、物語に入り込むような性質でないせいもあるのか、私にとっては就寝までの二時間でさらりと読めてしまいそうなボリュームだった。初めの数ページを眺めて、どうやら恋愛絡みの、SNSを題材に加えた現代ミステリーらしいと把握する。自ら進んで手に取ることは無いであろう本だが、考えたいこともあるのでこのくらいの軽さが丁度いいだろうと読み進めていく。
 少ししてマレがもぞもぞと隣に入ってきたので、一旦本を閉じる。顔の半分が隠れるほど深く布団に身体を沈め、横を向いて、座る私の腰のあたりに額を寄せるのを上から眺めた。マレはいつでも私にひっついて眠るのを好む。安心毛布を握っていないほうの手の置き場所に迷っていたようで、布団の中で少し泳がせてから私の脚に置いた。ようやく寝る姿勢を見つけたマレはすっかり重たくなった瞼を閉じて、仁さんおやすみ、と言った。私はその顔をじっと見ていた。
 初めて出会った時、マレはまだ子供だった。ランドセルを背負う歳だった。エーデルローズに進学してからも背丈はしばらく私の肩のあたりまでしかなかったので、いつも見下ろしていた。マレとは昔からよく目が合う。私が視線を向けると決まって目が合うので、私の視線が何に向いていても構わずマレはずっと私のことを見ているのだと思う。低い位置にあるふやけたへなへなの笑顔は本当に子供みたいで、私はあまりまともに年相応だと認識していなかったような気がする。言動にもなんだか幼さがあって、とにかくものすごくあほなものに見えていた。簡単に吐かれる軽薄な好意の言葉や軽率な馴れ馴れしい行動に、裏も意図も何もないんだろうと思えてしまうほどの単純さだった。会話を重ねながら、マレなりの秩序があって、表層からは想像できない一定の思慮深さがあって、ただなんとなく刺激に反応するだけのシンプルな構造物ではなく人間だったのだなと印象を改めたのはいつのことだっただろう。同じような人間がほかにいるのだろうかと今でも不思議になる程度には、蓼丸マレの存在は、私の中で特別なところにずっと位置付いている。
 悪夢を見ることがあった。誰にでもあるように忘れてしまいたい、上書きしてしまいたい特別な苦しみは私にもあった。それは今、すぐには取り出せないほど奥深くに仕舞われていたり、おそらくすっかり消えてしまったものもあるが、大半は変わらずずっと私の中にある。ただ私自身がその苦しみさえも自分の一部だと受容しつつあって、消すことに躍起になるのを諦めてしまえただけで、ずっとそこにある。もはや特別でもなんでもないものとして、変わらず私の脳に植わっている。私はいつまでマレに特別を感じていられるのだろうか。整理をするのが困難とされる負の感情や怒りでさえ特別でなくなってしまうというのに、マレへの気持ちだけは永遠だ、なんて都合の良い希望を抱くことはできなかった。
 きっと蓼丸マレこそが、生まれたままのように純真無垢な決して穢されることのない愛をもっていて、私に向ける眼差しも永遠になるのだろう。私の中にあるものはあまりにも脆く、全く信頼できない。
 だからこそ契約で努力義務を課すべきだ。
 さて、言葉にするとこんなにも味気なく、いずれこの手記を読むであろうマレに愛だと受け取られるのか甚だ疑問ではあるが、とにかく私は暫しの憂鬱ののち、マレの今にも眠りに落ちそうな横顔をぼんやりと眺めながら、改めて自分が結婚の誓いを立てる意義に納得したのだった。
マレマレ。まだ眠らないで」
 布団に隠れ切っていない耳をちょいちょいと引っ張ってそう言えば、マレはまだ起きていることを主張するように布団の中で私の脚をさすった。
「今から誓いの言葉を言うから」
 なんでいまなのぉ、とむにゃむにゃ言うのが聞こえた。
 実にふとした衝動的な思い付きだった。私が誓いたいのは母でも、有栖之園でも、ましてや神でもなくマレと自分自身へなのだから、二人きりの時にこそ言葉にするべきではないかと。
「あしたにしよお」
「やだ。今聴かないならもう言わない」
 うーんと唸りながら私の腰を抱いて、顔をすりすりと擦りつけてから、マレはどうにかこうにか仰向けになって瞼を開いた。
 マレ曰く私の瞳は海の色らしい。海のさまざまな表情を凝縮したようで特に好きなのだと何度も聞かされた。夏生まれだとか、誕生日に当てはまる十二星座がかに座だとかと結び付けて、マレは勝手に海を私の一部のように捉えている節がある。私の要素とは関係なく――いや、関係はあるのかもしれないが――マレは海そのものも好んでいる。本人の言葉をそのまま使うとまず「大きな水の塊」が好きらしい。水槽も風呂もプールも池も湖も海も、程度に差はあれど全てに好意的だ。眺めるのも泳ぐのも沈むのも浮くのも好きで、人魚か鯨になってみたいと言っていた。プールに入れれば手足を投げ出して完全に脱力し、顔だけを水面から出した状態で目を瞑り、そのまま放っておくと寝てしまうほどリラックスしている。海に連れて行けば飽きもせず何時間も眺めて潮風に髪をべたつかせている。本人が「もういい」と言うまでにどれくらいかかるのか気になって好きなようにさせてみたこともあるが、いくら待っても自ら切り上げようとはしなかったので、結局私が声をかけた。自分でも突飛だと理解しているが、マレの様子は竹取物語のかぐや姫が月を眺めている時のようで、マレの魂のふるさとは海にあるのかもしれないと密かに思っている。とにかくマレは海が好きで、海の色をした私の瞳も好きで、好意を出し惜しみすることなく伝え続けてくるものだから、いつからか私も自分に海の要素があるのだと自認しつつあった。そして、私の瞳を海とするならば、海を見つめたまま決して逸らさないマレの瞳はまるで空の色だった。
 実際のところ当然海水は無色透明で、青以外の光を吸収してしまう性質があるだけだ。空も、青い光がより散乱されやすいのでそう見えるだけだ。海も空も何色と定めるにはとても曖昧で、こうしてマレのほんのり緑がかったペールブルーの瞳を上から覗き込んでいると、マレこそが透明感のあるあたたかい海のように思える。とすれば私のくすんだディープブルーはそれを飲み込まんとする曇夜だろうか。私の空がどんなに厚い雲で覆われていたとしても、マレは白く光る星のように決して翳らないであってほしいと、願う。その光は地を照らすような輝きではないし、雲を晴らすような力も無いのだが、私がいま何処にいるのかを教えてくれる標のように見上げればいつでもそこに在って、目を逸らさない限り失われない。
私は多くのことを知らない。だから心当たりがないだけで、マレと話したいことも、行きたい場所も、見たい景色も、まだまだ経験したい何かがたくさんある。具体的な案も根拠もないのに確信だけがあるのは、マレとの生活が明日で終わってもいいと思えるような満足感を一度もおぼえたことが無いからだ。ここから十年、二十年と人生を共にしたとて満ち足りるかはわからない。永遠を誓えるほどの誠実さは持ち合わせないが、マレが私にとって永遠であることを望んでいる。私があの子に何かを望む時、私たちの間でそれは、紛れもない愛として処理される。
お互いの存在がお互いにとっての幸福に必要不可欠で、自身がより良くあろうとする働きをもたらし、尊重し合うための努力を互いにしているという信頼関係がある。マレの愛を私は受け取るし、私の愛をマレも受け取る。形はまるで違うし、理解だって完全にはしきれないだろうが、慈しむ。そうしていつまでもいつまでも幸せに暮らしてほしいから、私たちは結婚する。
 私とマレだけのための言葉を言い終えると、私はなんだかとてもすっきりとした気分になった。緊張も高揚も無い無為な私の気持ちは半分も伝わっていないかもしれないし、あるいは反対に大層なものとして変に伝わってしまったかもしれない。私にしては冗漫な言葉だったような気もするし、思考を重ねた結論にしては簡潔にまとまりすぎていたような気もする。マレはすぐに返事をしなかった。目を丸くして、ゆっくりと二回瞬きをしてから「……うん」と言って、ふにゃふにゃの笑顔になった。
 
 そして私たちは、二〇二二年一月十一日、寒九の雨に降られながら挙式を執り行った。見事なステンドグラスに雨粒があたるのを内側から眺めて、マレはにこにこと「下見のときは晴れだったから、違う天気も楽しめていいね」と言った。軽く繋いだ手に触れるマレの指先が冷えていたので、私は包むように握り直し、体温を分け与えた。


 本書は二〇二一年二月頃から翌年一月までについての、法月仁による手記を元にした小説である。これは法月が結婚について人生で一番考えざるを得なかった時期だ。二〇二一年七月、蓼丸マレ――現在は法月だが、活動名に合わせる――に「何か書いてほしい」と要望されつつ贈られたノートを受け取ってからしばらく、法月はテーマについて悩み、入籍の更に数年経って本格的に執筆を始めた。入籍までの経緯を記し終えるまで誰にも読ませず、ある日唐突に蓼丸へ「終わりました」と手記を差し出したらしい。法月も蓼丸も、当時はこうして実際に出版されるなどとは考えもしなかった。
 法月はプリズムショーという華やかながらも競技人口の増えにくいスポーツの推進のため、実に多様なアプローチを試みてきた。現役選手であった時代から、プリズムショーを大衆にとって身近なものとするため尽力してきた。現在もシュワルツローズの窓口は広く開いており、そこには日々大小さまざまな企画が持ち込まれている。その中には「法月仁総帥の自伝を出版しませんか」といったものもよくあった。
 率直に言って「仕事人間」である法月には珍しく、それは実に気の乗らない企画で、数えきれないほど断ったという。手記の執筆を終えた法月の心情としては「もうやらない」が一番大きかった。しかしさらに数年、母親や兄弟との距離感が徐々に変化しつつあったのもあり、めげない出版社から何度目かの打診があった際にふと「例の手記を元に何か本を出してもいい」と思えたらしい。
 はじめは一条シンと如月ルヰの、あの盛大な結婚式の大成功にまつわる裏話のような、まさにプリズムショーの功績を伝える内容を構想していた。しかし筆者の前に三人は執筆担当を外されたと聞く。法月は自分自身にも厳しくあるように、仕事において手を抜くことのない容赦のなさを存分に発揮したようだ。断っておくが、前任者たちも執筆において簡単な妥協を許すような作家ではまったくない。プリズムショーというマイナーな競技と法月の気難しさの掛け合わせで、これを「難しい仕事」と捉える人がほんの少し当初の想定よりも多かっただけだ。最後まで向き合えたのは、声がかかるより前から筆者自身も法月仁の本を手にしたいと思っていたこと、たまたま蓼丸マレが筆者の作品のファンであったことによる取材のしやすさといった幸運の重なりと、このままでは頓挫してしまうと崖っぷちに立たされたような編集者の並外れた働きをはじめ、本書の出版を望んだ人びとのおかげがあってのことだ。最終的に、その功績の事実ではなく法月の心情へフォーカスすることに同意をいただき、手記から感じた法月の誠実さという、一番世間に伝えたかった点を主題にできたと自負している。
 冒頭の「私の人生において、とりわけ印象深い出来事を記そうと思う。」の一文は、そのまま手記の一頁目の中心にこれだけが書かれており、法月がどのように蓼丸から贈られたノートへ向き合ったかが垣間見える。本書の執筆にあたって取材したところ、法月は手が止まると自分で記した冒頭の一文を読み直して「正解のないありのままの印象をマレが読める形にすること」と目的を思い返していたそうだ。手記は全文が丁寧に直筆で記されており、個人的な日記や心情の吐露とするにはあまりにも理路整然としていたが、法月にも迷いがあったらしい。本文中において「法月仁その人の言葉である」と明言を許されたのはこの冒頭の一文のみであり、他は全文筆者の主観による手が加えられたものとして考えて欲しい。とはいえ、法月のその精密な自己分析による淡々とした語り口や、愛着を感じさせつつもシニカルな蓼丸への姿勢、一筋縄ではいかない法月仁という人の手ごわさは、手記の印象を歪めないよう努めた。
 プリズムショー界の更なる発展に本書がほんの一端でも貢献できれば、一人のファンとしてこれ以上の幸甚は無い。

筆者