迷子

迷子

 6月27日のことだ。私は毎朝決まった時間に目がさめるので、その日も同じように瞼を開け、私を腕に抱いて眠る恋人を見た。マレは目覚めが悪く、私よりも早くに起きていることはほとんどない。マレの胸元に添えていた手を上に伸ばして、頭を撫でる、というより揺らしながら声をかけて起床を促す。ううんと唸って私を抱く腕に力が入った。マレがどうにか起き上がるのに合わせ、ゆっくり抱き起こされて、おはよう。ここ数年の朝の始まりは大抵こうだった。
 顔を洗って歯を磨いて、リビングに移動。ソファに腰掛け、マレが取ってきた今朝の新聞を広げる。3面を捲る頃にはマレが紅茶をテーブルに置くので、一口。私の日課では無かったが、マレはテレビが好きなので、報道番組にチャンネルをあわせてリモコンを置く。決まりはないらしく、毎回何度かカチカチとやって、基準は知らないが、とにかく今朝の番組を決めているようだ。音量を少し上げてキッチンに立つ。朝ごはん何がいいと聞かれるが、なんでもいいとしか答えたことはなかった。するとマレは自分の食べたいものを言うので、同じもので良いと伝える。朝食が出来上がるころには2紙とも読み終えるので、できたよと声が掛かればリモコンの側に置き、ティーカップを持ってダイニングテーブルに着く。いただきます。マレは口いっぱいに食事を頬張りながらテレビに視線を向けた。法月家ならば、はしたないと母に咎められていただろうが、私自身は特に気にならないため、好きなようにさせている。この子は少しぼんやりしているところがあって、画面の左上に記された日付に、きょう26かと思った、と言った。

「じゃあ広報部に行くのは今日じゃないのか」
「ほら、昨日の昼過ぎに広報部は訪ねましたよ」
「そうだっけえ?覚えてないや……昨日はほら、十王院カズオくんが新契約の話をさ……」
「それは一昨日」
「あれぇ?」
「しっかりしなさい、専属秘書」
「はぁい」

 昔からそうだった。少しぼんやりしていて、日付や曜日を勘違いなんてよくあることだった。この子はそうなんだと、この時は気にも留めなかった。
 マレの時間は、この日から逆行を始めてしまった。
 まずは一日。それが少しずつ増えて、二週間もずれてしまったときに、休みをとって病院に連れて行った。記憶障害だった。死ぬんですかと尋ねると、原因がわからない、脳も綺麗だし、精神的なものかもしれないと、随分曖昧で適当なことを言われた。たとえば、呼吸の仕方を忘れた時には死んでしまうだろうが、どこかで止まるかもしれないし、戻るかもしれないし、とにかくこの症状と関連したなにかには、致死性はないだろうとのことだった。医者のくせにふわふわと話すので苛々して、治療法を探してくださいと、久しぶりに、すこしおおきな声を出してしまった。マレはぼんやりと、自分の脳みそを見ていた。曜日を間違えるような子なのに、記憶障害であることを、明日の自分に伝えなくてはいけないと、すぐに理解したようだった。

──僕は蓼丸マレです。きっととなりにいてくれている人は、法月仁さんで、ぼくたちは恋人です。
 僕は記憶障害があります。昨日のことを覚えてなくって、それだけじゃなくって、だんだん昔のこともわすれていきます。今は6月30日だけど、記憶は6月16日です。忘れてるうちに誕生日になっちゃったみたい。もったいないなー。
 だから日記をつけたいです。僕は次のページに今日(6月30日)の日記を書くので、明日から同じようにしてくれると嬉しいです。
 それで、目が覚めたらいままでの日記を読んで、なるべく普通みたいに仁さんに接してください。お願いします。
 ここからは仁さんについて書きます。たぶん、5歳の時から仁さんが大好きだから、なかなか忘れないと思うけど、最近のぼくが気づいたこととか、5歳のときより今はどんくらい好きかとか、そういうのを書きます。全部読んでね。読んでから仁さんに接してね。お願い。
 僕と仁さんが結婚したのは5年前です。左手の薬指の指輪は結婚指輪なので、なにがあっても外さないでね。前にお皿洗いするのに外したら仁さんが悲しそうにしてたから、お願いね。
 朝起きたらこれを読んで、新聞をとって仁さんに渡して、紅茶を淹れて、朝ごはんをたべてね。寝る時は向かい合って腕枕して、ぎゅってしてね。たまに仁さんはうなされてるから、そしたら背中とか、頭とかをなでなでしてね。
 ごはん食べるときとか、デートするときとか、ほかの些細なことでも仁さんの希望を聞いてみてね。仁さんは無欲な人だから、あんまり希望はないみたいだけど、聞いてね。もしかしたらあるかもしれないから。
 仁さんの家のことは、僕からきいちゃだめだよ。話してくれる気持ちになったら仁さんが話してくれると思うので。
 毎日仁さんに好きと言ってください。あと、かわいいとか、きれいとか、かっこいいとかも。そう思った時には素直に言ってね。どうしてかはわかるよね?
 仁さんを困らせるような甘え方はしないでね。僕がこんなんになっちゃったのに、仁さんが人生を僕のために使うかどうか、さよならするかもしれないってことをちゃんと覚悟してね。毎朝ね。
 だから仁さんが、もうぼくの面倒見きれないってなったら、大人しく広島に帰ってね。両親と妹にもちゃんと伝えてあるから。
 ぼくはずっと、仁さんと恋人じゃなくなっても、どうか近くにいたいって思ってたけど、だからこんなこと書くんだけど、こんな病気のいまは、それは、だめだからね。お願いね。
 もっとたくさんあったはずなのにいまはなんか、落ち込んじゃって書けないので、もしこの先の僕が昔のなにかを思い出したり、新しく気付いたら、その都度日記にちゃんと記して、明日の僕に伝えてください。お願いします。どうか──

 仁さんを悲しませないで、と、震える字で締めくくられていた。
 病院の帰りに、マレは日記帳が欲しいと言ったので、運転手に伝えて近くの文房具屋に寄った。3年分もある分厚いのを選んで、家に帰るとすぐに書きはじめた。ペンを置くとじっくり読み返し、明日からこれを枕元に置いて、目覚めたらすぐに渡してほしいと言って、私に託した。読んでもいいのかと訊いたら、いいけど、ちょっと照れるから僕が寝たらにしてと言っていた。頷いて、ナイトテーブルに置いて、それで、遅い昼食を食べた。マレはテレビをつけなかった。
 この子は、私のことが大好きで、たまにじいと顔を見つめたと思ったら、なんの脈絡も無くキスをされることが、よくある。だのに、今日はきっと頭の中でぐるぐると色んなことを一人で抱えて悩んで、夕飯を食べるのも入浴もいつもと同じ時間だったのに、私の顔を見つめる余裕は無いようだ。私たちの間の会話はいつもマレがきっかけをくれていたので、マレが黙ってしまえば、この子と出会って初めてとも言える長い沈黙が、私たちを包んだ。
 何と言ったらいいのか、どんな言葉を望んでいるのか全くわからなくて、マレの言葉を待った。大浴場からあがって部屋に戻る途中で、マレは私の袖を引き、消え入るような声で、えっちしたいと、言った。
 腹の中を洗浄するのは何度やっても苦手だが、マレに前から抱きしめるように尻を開かれて、頬や額に何度も優しいキスをもらいながら、ぬるま湯が腹を叩くだけで、私のはしたない陰茎はぴくぴくと反応してしまう。3回程度で綺麗になり、今度は壁に手をついたマレの細い背中にキスをして、おなじようにぬるま湯を注いでやる。出して、注いで、数回繰り返して、肩で大きく息をするマレを振り向かせ、壁に押し付けながら唾液を分け合うキスをした。勃ち上がった竿がすると触れて、同時に肩が跳ねる。このプライベートなバスルームは、ほとんどセックスの前後にしか使わないため、寝室よりもいやらしい気分になってしまうのだ。
 首にバスタオルを引っ掛けて、スリッパだけを履いてぺたぺたと寝室に向かう。腰のあたりにタオルを敷いてマレを寝かせ、腹に跨ってまたキス。浮き出た肋骨を撫でれば、閉じた瞼が震えていた。手も足も胸も腰も、折れそうなほどに細い。もう7年以上も前に言った、白い肌が好きだという言葉を、この子は律儀に守っている。なんて従順で、きっと私のために生まれたんだろう。永遠に私のものだと、そう5年前に誓ったのだ。
 たった5年だ。

「んっ……ね、仁さん、今日はいっぱいしたい、から……先にいれさせて……」

 淡く色付いた乳首がぷくりと主張していたので、指先で引っ掻いて、きゅうと摘むと、マレは気持ち良さそうに目を細めてからそう言った。この子は体力がなく、さきにその身を串刺しにされてしまえば、あとは長い手足をくたりと投げ出して、揺れる腰に卑猥な喘ぎを添えるだけのいきものになってしまうのだ。私はといえば、現役を引退してもなお身体を鍛えているため、初めの頃こそ慣れぬ快楽に身を麻痺させていたが、回数を重ねればそれほど後を引くこともなくなった。ゆえに、一晩のうちに役を交代するならば、マレがまず男役をしなくてはいけない。私はマレの腕を引いて身体を起こし、枕をひとつとって横になり、腰の下に入れて角度をつけて、脚をそっと開いてみせた。
 マレは、てのひらでローションを温めながら、上向きの陰茎に舌を這わせる。喉に招いて、やわらかい肉で懸命に奉仕する。私はシーツを握って耐えながら、その様子を見下ろしていた。いつも、美味しそうな顔をしている。へんたいみたいだ。
 先っぽから零れた露が尻に垂れる頃、マレはやっとぬるついた中指をゆっくり押し込む。大きく息をして穴を緩めれば、すぐにそれが2本になって、3本になるころにはいやらしい音を隠そうともせず激しく掻き混ぜられる。はずかしい。

「あ、あっ……まれ、そこ、あう……んんっう」
「へへ……仁さん、腰がゆらゆらしてて、やらしー」
「いうな……はう、ん!あ、あ……い、いく」
「あー、かわいい……」

 かわいくない。こんなの、やらしくて、恥ずかしくて、きたなくて、はしたないのに、胸があたたかいのでいっぱいになって、何度も求めてしまう、どうしようもない、へんたいだ。
 マレの身体に似た、少し細くて長い陰茎が、私を串刺しにする。両脚を肩に掛けて、マレは真上から私の顔を覗き込んで、美しくない、歪んだ表情を余すことなく瞳に写そうとする。開きっぱなしの口から唾液が溢れて、舌をしまえない。頬を真横に流れる涙を舌で舐めとって、顔中いたずらにキスされる。激しく突かれると、反り立つ私の性器がぱたぱたと腹に当たって、気持ちがいいと零す涙を飛ばすのがわかって、顔に熱が籠る。もっと、おく、とか、きもちい、とか、口が勝手なことを言う。それで本当に奥を、めちゃくちゃに愛されて、もう何度も経験した身体は、簡単にドライオーガズムに達してしまう。勝手にのたうつ尻がはしたなくて、恥ずかしくて、咎めるように抑えつけられると、マゾヒストみたいにうれしくて、へんたいになった。助けて欲しくて、ゆるして欲しくて、縋るようにマレを見遣れば、欲望を湛えた空色の目に射抜かれて、きゅんと後ろを締めてしまった。つり目がまた気持ちよさそうに細まって、精液を漏らした。
 互いに、余韻に浸るように小さく腰を揺らしてから、マレはゆっくり抜いて、横に寝転んだ。たくさん運動したあとみたいに肩で息をして、呼吸を整える。マレはしばらく動けないようだったから、私は起き上がって精液を受け止めたスキンを外してやった。溢れないようにパチンと結んで、ベッドの下に落とす。そのまま脚のあいだに顔を埋めて、アイスキャンディでも咥えるような気軽さで、喉に入れた。唐突な愛撫にマレの脚がばたばたと暴れるので、付け根を押さえつけて、大きく横に開かせる。

「やっ、まだ、待って」
「待たない」
「あん、んぅ!いじわるっ……!」

 達したばかりの性器はぴくぴくと情けなく震えて、本当に体力がないなと笑う。陰嚢を揉みながら先っぽを吸えば、やだ、いじわると繰り返しながら、ひんひん悶えていた。情けない反応だ、どこもかしこも。だが、これをすぐに大きくする言葉を、私は知っていた。

「……好きなくせに」

 ほうら、この子だってへんたいなのだ。
 脱力したマレは、全身を震わせながら気怠く喘いでいた。つい先刻、私を射抜いた捕食者の目はなりをひそめて、とろけてこぼれ落ちそうなほど涙に濡れていた。顔が首まで真っ赤になって、いつも困ったように下がった眉がさらに下がって、気持ちが良くてたまらないというような表情になる。まだ2本の指で前立腺を捏ねてやっただけなのに。以前、私がマレを欲して、貪るだけで、どうしようもなく嬉しくて感じてしまうのだと言っていた。それすらも、忘れてしまうのだろうか。

「はぅう!あ、あぁ、あんん……」
「く……っ、マレ、ほら、自分で持て」
「あう、ふ、かい、はぁん」

 身体を折るように膝を胸につけさせて、マレ自身に抱えさせる。上を向いた肛門に、根元までみっちり埋めて、腸内のうねりを堪能した。間も無く、まずはゆっくり抜き差しすると、マレはまたいっぱいいっぱいの顔をして、蕩けた声を出す。

「ふゃ、あ、あん、ひもちい、はぁ、あ……ん、んぁ、あぅ、ぐす」

 泣きが入った。

「じんさん、すき、すきっ……うぅ、ぐす、やだ、あんっ!わ、わすれる、やだぁ」
「うけいれろ」
「やだぁ、やだ……あ、ぼく、やだぁ……う、ふぇ、やらぁ」

 俺だって、いやだ。そんなの、平気なわけがない。いやだ。

「あきらめろ」
「やん、やらぁ!ぼく、ね、ねない、や、やら、やらよぉ」
「……ばか」

 しゃっくりをあげて泣き出すものだから、腕に力が入らなくなって、脚が解放される。背中に両腕を差し込んで、抱き起こしてそのまま、対面座位の形をとると、マレはぎゅうと私に抱きついて、鼻をすすっていた。

「ごめん、なさい、じんさん、ぼく、ぼく」
「いい子だから、謝るな」
「ごめん、ね、ぼく、あ、ぼくの、こと」

 すててもいいなんて、言ったら、お仕置きをしてやろうと思ったのに。

「すて、ないで……」

 仕方なく、とびきり優しいキスで、それはもうたっぷり、呼吸ができなくなるまで、口を塞いでやった。やっと唇を離して、銀の糸が途切れる前に、誕生日おめでとうと囁いたら、切なそうに微笑んだ。
そして、やだやだと駄々をこねる口から、好きとか、気持ちいいとか、そんなのしか出てこなくなるまで何度も抱いて、気を失うように眠りにつくのを見届けて、今やっと、託された日記を開いた。

 何度も読み返して、一字一句、字の癖まで暗記したころにやっと閉じる。もう朝になっていた。出勤にはまだ早いが、あとで見ればいいし、どうせ折り返しの電話が来るだろうと、秘書部初め直属の部下数人に長期休暇の連絡を入れた。まあ、連絡が来れば対応するし、そもそもこの自宅の下に会社があるのだから、休暇というよりは在宅勤務になるのだろうが、大きな企画が落ち着いた頃ということもあって、直接的な運営や営業は部下に任せるとする。マレのことは、少し迷って、聖やマレの友人たちに事実を伝えると決めた。メディアに漏れれば外に行くのが難しくなるだろうから、とりあえず今日は外出して、そうだ、デートをしよう。マレに行きたいところがあればいいが。ずっと、手を繋いで歩きたいと言っていた。断り続けていたが、今は、一緒にいられる時間が増えるなら、世間体もなにもどうでもいいとさえ、思う。
 頭を撫でる。愛おしいと思う。自分にこんな感情があるだなんて、マレに出会うまでは想像もできなかった。目覚めたら、まずはキスをして、シャワーを浴びよう。ここ数日を思えば、急にそんなに何年もは無くならないようだから、こんな、つらい事実はもう少し後で知ればいいと思った。
 しばらくして、マレが私の腰に腕を回して抱きついたので、おはようと声を掛けた。もっと撫でてとくぐもった声で甘えるので、言う通りにしてやる。今日は休みになったから、支度をして、どこかに出かけようと言った。こないだゴールデンウィークのおやすみもらったばっかりなのに!と跳ね起きて、表情を崩さないまま、そうだな、と言った。昨日は6月16日の記憶だったはずだ。そこからいっぺんに、一月もとんでしまったのか。
 日付を聞いても、ぼんやりしている子だから、自信なさげに5月11日かなぁと言った。昨日のことを尋ねれば、たしかに記憶は5月の11日だった。本人の日付感覚がもともと曖昧なせいで、遡るほどに照合が大変かと思われたが、私はシュワルツローズ発足以来のスケジュールを保存しているし、エーデルローズには、聖や父が破棄していなければ、私が毎日こまめにつけていた記録が残っているはずだから、マレに「昨日」のことを訊けば、何夜目にどれくらい消えたか正しく記すことができるだろう。
どろどろの身体に不思議そうにしていた。無理もない、普段は風呂に入ってから、シーツを一枚とって眠るのだ。そのまま寝入るほど激しい夜は、数えるほどしかない。お風呂入っていい?と聞くので、一緒にと言って、ベッドから降りた。立ち上がった瞬間に腰が砕けたようで、座り込んでしまった自分にまた不思議そうな顔をしていた。面白い。少し笑って、横抱きにしてバスルームまで連れて行ってやった。
 屋上の露天風呂ほどではないが、大の大人が2人で入っても余裕のある浴槽にゆったりと浸かる。そろそろ契約している使用人が部屋の掃除に来るだろうが、別に、どうでもいい。床に落とした避妊具の数を思うと少し気分が悪くなったが、どうでもいいと思うことにする。

「仁さん、どこかいきたいところある?」
「ない」
「もちょっと考えてよ!」
マレが起きる前からずっと考えていた。ないな」
「そっかあ。うーんうーん」
「沖縄でも、東北でも、海外でもどこでもいいですよ」
「ええっ泊まりでもいいの!?」
「ああ」
「ど、どうしたの、急に、く、クビになったの?永遠に暇的な?豪遊してる場合でなくない!?」
「落ち着け。ただ、色々と軌道に乗ったから、部下に任せてゆっくり過ごしてやろうと思っただけだ」
「わあ、偽物の仁さんではなかろうか……」
「別にこれから仕事をしてもいいんだが」
「うそうそ!えーでも、急に言われると悩んじゃうなぁ〜!」

 マレの顔が嬉しそうに綻んだ。
 ヒロが、美しい頭に冠をのせてから少しして、私はプリズムショーの表舞台から退いた。変わらずスタァの育成はしているが、コーチを雇い、直接プロデュースに口を出すことは少なくなった。スタァも、その指導者も同時に育成する機関へと徐々に変化し、ほかの事業にも手を出した。外部に漏れれば危うい手段を遠ざけて、それでもなお、資産は大きくなっていった。経営は得意だ。
 マレと穏やかに過ごす日々も、楽しい。

「じゃあね、京都行きたい!というか、関西?ユニバって大阪だよね?」
「修学旅行みたいだな」
「だめ?」
「だめじゃない。予約を入れて、夕方の便で行くか。食材が余っているから、豪華な昼食を作って」
「シェッフさん呼ぶ?」
「いや、ふたりで作ろう。きっと楽しいですよ」
「ぼくね、仁さんの料理大好きだよ!」

 知ってる。この子は私のなにもかもが、愛おしくてたまらなくて、大好きなのだ。
 風呂から上がり、料理をしながら合間に寝室を覗くと、やはり思った通り、使用人がすでに寝室を片付けてくれていた。秘書部に連絡をいれていたので、休日のスケジュールに急遽変更してくれたのだろう。もう一度電話をとって、ホテルと飛行機の予約を取るよう指示した。とりあえず1週間程度でいいだろう。1週間。その間にマレの記憶はどれほど消えるのだろうか。

「何着もってけばいいかなあ」
「どうせ向こうで買うんだから、身軽でいいだろう」
「そっかあ。ケータイと、充電器と、もーふと…」
「財布」
「わすれないよ!」
「これから暑くなるから、初夏の格好にしなさい」
「はぁい」

 事実、初夏だ。
 ノートパソコンと、マレの日記と、愛用しているスキンケアなんかを用意して、2人の荷物をひとつのトランクケースにまとめる。マレが日付を確認したらと少し案じたが、休日にカレンダーを見るほどマメではないようだ。夜に伝えよう。それまではなるべく外界の情報を閉ざしてやろう。
 普段外出の際に持たせている鞄を肩に掛けて、私の前でくるりと回ってみせる。どうしようもない癖毛はもうしょうがないので、頷いて、私もくるりと回ってみせた。今日もキレイ!とマレが満足そうにする。履き慣れた靴を履いて、エレベーターに乗った。プライベート用なのでどこにも止まることなく一階に着き、待っていた秘書の1人が予約の確認と、仕事の情報をまとめた資料を手渡す。礼を言って用意させた車に向かう。マレはすれ違う従業員にこれから旅行行くのと声を掛けていて、いいですねなんて世辞を貰っていた。運転手にトランクケースを渡して後部座席に乗り込む。用意されていたスムージーを飲みながら資料に目を通していると、隣のマレが携帯を弄りながら、時間は合ってるみたいなんだけど日付が狂っちゃってんの、向こうでショップ寄っていい?と言うので、ああと答える。私が、マレの記憶の日付を否定しなかったので、そう信じたのだろう。SNSを頻繁に見るタイプじゃなくて助かった。チラと覗けば、観光地を調べているらしい。

「お寺巡りついでに御朱印集めがしたいんだけど、そんな歩き回ると疲れちゃうし、清水寺らへんだけでめっちゃあるみたいだし、そのへんだけでいいかなあ」
「持ち歩いていればたまたま見つけた時にも貰えるだろう」
「向こうにはおっきいのがばんばかあるもんね!」

 ばんばかはたぶん無い。

「抹茶スイーツももうめっちゃ食べられるね!わくわく」
「珍しく出歩く気満々ですね」
「地中海でのんびりしたから今度はいっぱい歩き回りたいもん!」
「まず京都のホテルに泊まって、奈良、大阪と移動して帰るようになる」
「わかった!ユニバ最後だね!わくわく」
「楽しみですか」
「とっても楽しみです!」
「……そうか」

 それは良かった。

 

──7月1日 晴れ
 マレです。仁さんと京都に来ました。すごく楽しい。今は夜で、遅い夕食を食べて、ホテルに来て、この日記を書いています。
 朝自宅で起きて、お風呂に入って(なんか昨日めっちゃえっちしたっぽいんだけど全く覚えてなくて超くやしい)旅行に行くから冷蔵庫のなんか悪くなりそうなものをいっぱい使って豪華なお昼ごはんを作って食べました。仁さんと料理したよ。めっちゃおいしかった。それから準備して夕方ごろに飛行機に乗って、夜について、そこから2時間くらいかな、車でホテルに行きました。途中で夕飯を食べたから、まっすぐ行ったら1時間くらいかも。とんかつを食べました。これもおいしかった。仁さんの口にも合ったみたいでよかった。今日は本当に楽しくて、なんでかって記憶障害のことを仁さんがさっきまで内緒にしててくれたからです。昨日のとこには、朝起きたらこれを読ましてって書いてたけど、大きく関係が変わるほど一気に無くならないだろうって思った仁さんが、せっかく休みなんだから楽しくすごさしてあげよって、そうしてくれたそうです。やさしい!おかげで本当に楽しかった。地中海に旅行に行ったのがこないだみたいな感覚で、そうだ、記憶は5月11日です。で、GWがこないだみたいな感覚だから、また休めるんだー!って、ほんとに楽しかった。1週間もお休みなんだって。その間はとりあえず、なにもなきゃ、そんで僕がいいなら、みんな今日みたいにしてくれるって仁さんは言ってた。ぼくはそうしてくれるとうれしいよって言った。でも明日目が覚めて記憶が3月とかだったら、あんまり暑くてびっくりするよね。だからできないかもしれない。それでもいいよ、本当に今日がとても楽しかった。きっと明日には地中海のことも忘れちゃうんだろうから、次のページにおぼえてることを書こうかなって思うよ。
 このあとはお風呂に入っておとなしく寝ようと思います。仁さんが、昨日眠ってないらしくって、めずらしくあくびをしてたから、早めに寝さしてあげたい。勿体無いから、寝顔を目に焼きつけときたいなって思う。ま、焼きつかないんだけどね。
 僕は生きてるのに、まるで気分は明日死ぬみたいな感じです。そうだね、この…なんていうか、僕自身には明日はこないし。昨日の僕はもういなくって、なんか、なんども死んでるような気分。死んだことないけど。仁さんはどんな感じなんだろう。ぼくは、ぼくだったら、仁さんが僕みたいになったらやっぱ悲しいし、仁さんも悲しいんだろうか。ごめんね。でも、消えていく仁さんを悲しむよりも、いまこの瞬間の仁さんを幸せにって思うから、仁さんも同じかもしれない。おなじかな、ありがとうね、仁さん。
 って、書くとなんだか参ってるみたいだけど、あんまりそうでもないよ。というか、実感があんまりなくて、ふーんて感じ。たぶん自分の記憶と周りの時間の差があんまりわからないからかなあ?きっと大変だけど、どこかに閉じ込めててもらえたら、僕は幸せなのかもしれないね。明日以降の僕にちょっと無責任なこと書いちゃったけど、今日の僕の感じたことなので、とりあえず書いておくね。
 明日は京都観光だよ!たのしみだなあ。──

 7月2日。ホテルで目覚めると、いつものようにマレに抱きしめられていた。もぞもぞ、時間を確認するといつもの起床時間で、とりあえずマレを起こさぬように腕から抜け出して、顔を洗った。歯ブラシを咥えてベッドを見るとマレが動いているのが見えて、側に寄る。頭を撫でると、ここどこ、と返ってきた。京都のホテルですよ、おはよう、と言うと、ぼんやりした様子で、おはよう、と起き上がった。

「……きょうと?」
「京都」
「なぜ……?」
「休暇で。記憶にないか?」
「うん……」
「今日は何日だと思いますか?」
「2月……4日、かな?」

 消える記憶は徐々に増えていた。わかっていたはずなのに、それでもいざ目の当たりにすると、絶句してしまった。

「え、じ、仁さん、どうしたの!?」

 なんで泣くの、と言われて、今日は最初を間違えてしまったと、思った。なんでもない、口をゆすいでくるから、そこの日記を読んでおけと言って部屋を出る。
 わかっていたはずなのに。このまま増え続けたら、あっという間に子供になってしまうではないか。どこまでいくのか、止まらないで、呼吸のわからない胎児になったら、どうなる、たった24年の人生だ、こんな速度で消えていったら、どう、どうしたらいいんだ。私を忘れるのも、子供になるのも、生きてさえくれていれば構わないのに。
 とりあえず、医師に症状の連絡を入れようとして、正しい記憶の日付を確認していなかったことに気付き、入念に顔を洗って涙の跡を消し、部屋に戻った。マレは昨日までの自分の日記を読んで、なんとも表現しにくい顔をしていた。今日も日記を夜に見せようと思っていたが、その、消えた記憶があんまり大きくて、驚いてしまった、外に出る元気が無かったら、ホテルから出なくてもいい、言葉を失った様子のマレに、ポツポツと語った。

「きのう、節分をしたから、たぶん記憶の今日は2月4日で間違いないとおもう」
「わかった」
「もう、ちょっと待って、外行きたい、デートしたいけど、もちょっとまって」
「……わかった」

 電話をかけようとした時、マレの携帯が震えた。アラームで、来客の予定を入れていたらしく、「九石さん、2時間後」と出ていた。これは私の仕事関係の相手で、今回初めて来社いただく予定で、マレは直接会ったことはない人物だ。

「さざらしさん?」

 マレが正確に読んだので、驚いて顔を見る。スケジュールに入れる際には読み方がわからず「くいし」と読んだので、「さざらし」だと教えたのは確か、6月28日のことだ。

「どこかで読み方を覚えたのか?あまり見ない名前のはずだが」
「わかんないけど、なんとなく?合ってるの?」
「合ってる。それを私が教えたのは6月28日のはずだが、覚えているのか?」
「お、覚えてないけど、でもいまピンて、さざらしだーって!」

 完全に消えているわけじゃないのかもしれないと、綻ぶ顔につられて私の顔からも力が抜けた。
 医師に、一度に失われる記憶の範囲が予想以上に大きいこと、失われた記憶の中で学んだことを覚えていたことを伝えると、マレに代われるかと聞かれたので、携帯を渡す。ベッドに座ったまま、長くなりそうだったので、先に着替えて髪を整えた。戻るとちょうど終わるところだったので、もう一度携帯を受け取り、とりあえず次回の来院は前回の予約通りということで、といった会話をし、切った。マレにどうだったと訊くと、なんか、生きるために必要なこととか、言葉とかは忘れないかもしれないって言ってたよと微笑んだので、そうかと答えた。
 現在かかっている病院は法月家と深い関わりのあるところで、とりあえずはそこにしかマレを診せていないが、休暇が終わる頃にはメディアにも知られているだろうし、ほかの医師にも診せようと考えている。いまの医師や部下の一部にも症状に心当たりのあるだれかがいないか探させているが、全く同じというのはなかなか見つからないようだった。
 とはいえ、回復の兆し……と言えるのかはわからないが、ささやかな希望とも思える事実を前に、マレも少し元気が出たようだった。ベッドから降りて、着替えながら朝ごはんなんだろうねと言ったので、和食だったと思うと答える。

「ほんと?楽しみだねぇ」
「そうだな」

 昨夜、閉じ込められていたら幸せかもしれないと、マレがどんな気持ちで書いたんだろうと考え、切ないような、悔しいような気分になっていたので、こんな風に楽しそうにしているのを見ると、ほっとする。
 予定より少し遅く朝食を食べて、昨日マレが楽しそうに立てた順序通りに観光地をてくてくと歩いた。この子は体力が無いから、途中頻繁に喫茶店やベンチに座って各店舗の抹茶スイーツを堪能する。私もマレもそんなに食べるほうではなく、ひとつ買って半分ずつ食べた。繁華街に行くと店頭で試食を配っていて、私は遠慮したが、マレはあちこちで貰って一口、特に気に入ったものを帰宅する頃に届くよういくつか手配した。
 寺巡りも気に入ったようで、御朱印帳をパラパラと捲っては満足そうに微笑んでいた。屋台で売っていた番傘を欲しそうにしていたが、使うのかと訊けば、使わないデスと言って、おとなしく同じ柄の扇子を手に取ったので、それは許可をしてやった。正直、物がたくさんあれば何かしらが記憶の回復の切っ掛けになるかもしれないし、マレのささやかな散財なんていくらでも叶えてやれるのだが、そういう甘やかし方はしなくていいと、マレが高校生だった頃に言われていたのでそうしている。多分、親子のような会話も楽しいんだろう、不思議な甘やかし方だが本人が良いならそれで良い。
 日が沈んでからホテルに戻って夕食を食べる。荷物を部屋に置いてルームウェアに着替え、大浴場に向かう道すがら、フロントでクリーニングを依頼した。時間帯か、何故か貸切状態だったので、マレが不服そうにこれじゃいつもと変わんないね、隠れていちゃいちゃするの楽しみだったのにと言った。生憎だが私にそんな趣味はないため、素直に良かったと思う。芋洗いのようだったら踵を返しているところだ。肩まで沈んで露天風呂の奥の方まで移動したら、見事な夜景を見下ろす。うちより低いねとマレが言うので、星はこんなに見えないぞと上を向かせる。今度プラネタリウムも行きたいね、夏だから特別なのとかやってるかもしれないし、とマレが空を見上げたまま言って、私は、覚えておくと答えた。

「ありがとうね、仁さん」
「……こら、泣くな」

 親指で拭ってやったのに、次々と溢れ出してどうしようもなかった。この子は、私が絡むと泣きむしになるんだったと、今はもう懐かしい、春を思い出す。私に必要とされていることが嬉しいと、健気に泣きながら笑っていた。

マレ、私には君が必要です」

 頬を両手で包んで目を合わせる。

「どこにも行かないでくれ」

 私に申し訳ないとか、そんな思いで姿を消されたら困る。どうなっても手離してやる気はないから、手離されない気でいなさいと思う。

「でも、けさ、仁さん泣いてたよ。ぼくのせいで仁さんが悲しいの、やだよ」

 吐く息にどうにか添えるように、震えた声でひとつひとつを音にしていた。

「仁さんも、ぼくのこと、忘れられたらいいのにね」
「絶対に御免だ」
「……すき。好きだよ仁さん、大好き……」
「知ってる」

 あの夜、負担になったら潔く離れる覚悟をしろと、言い聞かせるように文字に残したマレが、絞り出すように出した「すてないで」を、マレの中にはもう残っていないかもしれない「すてないで」を、大切にできるのが私だけなら、それだけで、今のマレがどんなに嫌がろうと離さない理由たり得るのだ。
 こう大きく日付がズレては記憶障害を隠すのは困難だろうし、たまたま上手く行くような時以外は寝起きとともに日記を渡してくれていいという話をした。ただ、今日の記憶を明日の自分が持たないと、知ったまま過ごす時間が長いほど、眠りにつく前に駄々を捏ねるだろうから、それをどうにかするのが面倒だったらどこかに閉じ込めていてくれてもいい、とも言われた。私は毎夜でも涙を拭うし、マレが死ぬような感覚を味わうたびに、私もマレを失う感覚を、共に味わってやれると答える。
 なめるな、そんな覚悟はとっくにできている。
 服を着て同じ道を帰る。そういえば、観光中はあちこちに目移りするマレを追うのに忙しくて実行していなかったことを思い出し、マレの手に指を絡ませた。きゅ、と握ると大げさなほどにマレの肩が跳ねる。

「じ、仁さん、ここ人いるよ?」
「繋ぎたかったんだろう?かまわない」

 顔を真っ赤にしてふにゃと笑って、握り返した。ちゅーもしていいの、と覗き込むので、それはだめだと顔を背ける。
 部屋についてすぐマレは日記を開いた。ベッドに寝転んで、最初はあそこに行って、あれをたべてこれをたべてと声に出して書いて行くのを、その前にあれを食べたとか、あそこにも行ったとか付け足してやる。私は冷蔵庫から日本酒を出して、ソファに腰掛けグラスに注ぐ。

「そんで、お風呂入って星がきれーで、こんどプラネタリウムに行ってね、っと……」
「終わったか」
「まってね……ん、おあり!なぁに」
「呑もう」
「わかった!」

 ぴょこぴょこと跳ねるようにベッドから降りて、向かいに座る。水割りにしてやってから、グラスを合わせて乾杯。日本酒って久しぶり、とへにゃへにゃし出す。マレは、こうなるのは早いが、ここからはいくら飲んでも大きな変化はなく、翌日にも持ち越さないので、多分強い部類に入るのだろうと思う。まっすぐ歩けないのに強いと言うのも変だが。明日は遅くに起きて、奈良のホテルにチェックインして休もう。マレは覚えていないから気分は元気かもしれないが、そう連日あちこち行くのは身体が疲れてしまうだろうから。うんうんと頭が取れそうなほど頷いて、トランプとかしようとマレが言う。2人でか?と聞くと、ホテルのひと混ぜてさと無茶なことを提案してきた。ちょっと困難だろう。
 ふらふらと危うげに頭が揺れるので、横になるかと言ったら、寝そう〜〜と間延びした声を出した。寝ろ、と頭を撫でる。
 ベッドに向かい合って寝転んで、あれがおいしかったとか、なにがすごかったとか、そんな話をマレが繰り返すのを相槌を打って聴く。ゆっくり目が閉じそうになるたび頬をつねると、あわてて目を擦って寝まいとするのが面白くて、何度も同じことをする。もしかして本当にこのまま眠らずにいたら、マレには明日がやってくるのかもしれない。一瞬脳裏を過ぎるが、先延ばしにしたところでマレの身体に負担がかかるだけだと否定する。

「わすれ、たく…ないよ」
「……うん」

 頬に乗せた手に擦り寄って、もう寝そうなのだろう、瞼がおりる。普段眠る体制とは逆に、いつか、まだマレが私の胸ほどの背丈しかなかった頃のようにマレを抱いて、背中を優しく撫でてやった。
 明日はどうか、少しでも消える時間が減るといいのにと、私も目を閉じた。

 7月3日。変わらずいつもの時間に目覚める。私の腕の中で眠るマレをぎゅっと抱き寄せて、寝顔を見ながらぼんやりと起きるのを待った。きっと昨日の身体の疲れが残ってるだろうから、目覚めるのは昼過ぎかもしれない。それでもいい、もともとマレは眠るのが好きだし、休日なにも予定がなければ二度寝をすることもあった。ここ数日で、眠る時間と消える時間に関係性は見出せなかったし、病院に連れて行く前に昼寝をしていた日もあったが、その時には記憶は継続していたので、今朝はいくらでも寝かせてやろうと思える。
 原因を考えていた。精神的なものだろうとの診断は、あながち間違っていないように思う。誕生日を迎えるのが嫌だったのだろうか。随分前の話だが、私が好む少年の歳を越えることが、以前は少し怖かったのだと言っていた。しかしどこでケーキを買おうかとカタログを楽しそうに眺めていたのに、誕生日の予定を楽しそうに考えていたのに、とても嫌がっていたようには思えない。だが、あの子の生活に関わっているものなんて数えるほどしかなくて、私と、仕事くらいだ。仕事は、私は家事を手伝うだけで構わないと言ったのに、それではだめな気がすると自ら望んでやっているはずで、辞めたいわけはないだろう。……それとも、それとも私を、この子の人生から私を排除したくなって、でも、この子の人生のほとんどは私に捧げられてきたものだから、やり直そうとしているのだろうか。私のこの、腕の中から抜け出そうと今まさに、もがいているのだろうか。僕のことが、いらなくなって、しまったのか?マレ、だとしたら、どうして……いや、いや。当たり前の話ではないか。恋愛感情だけで見ても、マレは今日まで7年も私のことを、愛おしくてたまらないんだと、言葉で、行動で、目で、声で、あの子の持てる方法を全部使って伝えてくれているのに、私は去年まで自分がマレのどこを好きなのかも、わからなかったのだから。それだって、今、マレにいらないと言われているのかもしれないと思い当たるまで、マレが私を好きなところが、好きなんだと思っていた。ちがう、そんな単純なことではなくて、マレに与えられる愛の全部が心地よくて、もうそれがなくては生きてはいけないほどなのに、私は今までそれに気付かずに、与えられる努力もしていなかった。
 この子は私が大好きでたまらないんだと、それに胡座をかいて、マレのことを私は、私はちゃんと愛してなんかいなかったんだから。
 嗚咽がこみ上げる。気を抜けば声を上げてしまいそうで、必死に口を閉じた。去年、マレが毎日、頼んでもいないのに私にくれていた数々の、ほんの一端を知って、たしかに嬉しくなって、これが愛おしいという気持ちなんだろうとやっと自覚して、それで……それで?私は何かマレに返しただろうか、愛されることがどういうことかも知らなくて、今だってちゃんとは分からなくて、愛しかたなんてもっと、わからない。わからない?そんな筈はない、こんなに近くにずっと、この子は私を愛してくれていたのに。
 すてないでと懇願するのは私のほうだ。この子がいないと、私はうまく息もできない。
 金も、地位も、権力も、マレはなにもいらないと言うだろう。シェフの作った朝食より、私を抱いてする二度寝のほうが好きな子だ。それに代わるほどマレがほしいものなんて、想像がつかなかった。もし、その腕に包みたいものが変わっても、私はなにも差し出せない、なにも持っていない。すてないでと、懇願するのは、私のほうなのだ。
 涙が溢れて止まらなくなって、息が上手に吸えなくて、起こしてしまわないように声を抑えたいのに、自分のなにもかも操れなくなってしまった。せめて目覚めてもこの、情けない顔を見られないようにとマレの頭を抱えるように抱き直した。髪に鼻を擦りつけて、このまま輪郭がなくなってひとつになってしまえばいいのにと思う。まっくろのくせ毛に指をさしこんで、頭の形を確かめるようにうなじに滑らせる。刈り上げられた髪の感触が好きだ。マレに触れて初めて知ったし、マレのしか触ったことがない。少し不恰好な耳の形が好きだ。耳たぶが薄くてせまくて、ピアスをあけるとしたら上のほうじゃないとかっこよくないと文句を言っていた。触れると、私の耳では突出してないところに山があって、薬指の第1関節ほどしかない短い小指といい、少し内側に向いた左の目といい、どうしてこの子の身体はこんなに面白いんだろうと思う。右の耳の裏にはほくろがあって、これはきっとマレの家族と私しか知らないだろう。ほくろ、マレはあと、首の左側にふたつ並んで、左手のその短い小指にもひとつ、右の腰にもあって、これは自分じゃ見えないと言っていた。左の足首と、へその横と右肩にもひとつ。それから、ああ、左の乳首のそばにもひとつある。背中にも何個か、唇でなぞると耐えるように震えるのが好きで、何度もした。耳を指先でくすぐりながら、脳内で全身を余すことなく晒せることに苦笑する。止まらない涙がシーツに染みて、頬が冷たい。頭の位置を変えようと動いたら、添えるように腰に回っていたマレの腕に力がこもった。起きて、しまっただろうか。顔を上げて欲しくなくて、後頭部に手を戻すとぎゅっと胸に押し付ける。じんさん……?と眠たそうに呟いたので、おはようと言ってみたが、自分が思っていたよりも濡れた声が出てしまって、マレが慌てたように腕の中から出ようとするので、見るなと言って力を込めた。マレはおとなしく視界を奪われたまま、そっと片腕をあげて私の頬を触り、手のひらで涙を拭った。そんなことをされたら、もっと溢れてしまう。嗚咽を止める術を知らなくていたら、マレは私の頭と背中に手を置いて、まるであやすように撫でてくれた。

「まだ、ほっぺ痛いの……?」

 何の……いつのことを言っているのか、すぐにはわからなかった。

「きのう、クーさんにぶたれたとこ、まだ赤い……?」 

 ああ、嘘であってくれ。

「ごめんね、昨日ぼく、なにもできなくて」

 一月や二月どころではない。
 今、マレは15歳の冬に居た。

「仁さん、泣かないで、氷とってこようか?」
「……っいい、もう、痛くないよ」
「じゃあなんで泣いて、っわ!」

 肩を掴んで距離を離し、目を合わせた。流れ続ける涙にマレは困惑したようすで、手のひらで懸命に拭ってくれる。私の、私の恋人のマレだったら、目尻にキスして頭を撫でてくれるのに、15歳のマレは、子どもみたいにただ手のひらで拭う。何度も、何度も。それでも止まらないから、今度はこの子のほうが泣きそうな顔になっていく。

「仁さん、ごめん、ごめんね、ぼくのせい?ごめんね」
「なぜ、マレがあやまる」
「だって昨日、仁さんに手をパチッてされて、それで仁さんに嫌われたらこわいって、何にもできなかったのずっと後悔してて……ずっと……皇さんに、仁さんはあなたに褒めてほしくて頑張ってたんだよ、とか、言えたらよかったのに……仁さんがあんなに怯えてるの、初めてみたのに、嫌われてでも、置いて行かなきゃよかったって……ずっと……」
「昨日のことなのに、ずっとだなんて、へんな言い回しですね」
「そう……そうかな、ごめんね、嫌われたくないなんて自分勝手で、仁さんのこと置いていって、ごめんね」

 マレの目尻に涙が浮かぶのがわかって、親指で拭ってやった。

「君に、渡さなければならないものがあります。起こしてくれますか」

 マレはパッと起き上がって、両手を私に伸ばした。腕を引かれて起き上がり、ナイトテーブルに置かれた日記をとって、ヘッドボードに寄りかかって座る。マレにちゃんと、記憶のことを伝えなければと思考が移れば、涙もおさまってきた。手招きしてマレを隣に呼び、頭を私の肩にもたれさせる。絵本の読み聞かせをするように日記を開いて、1番上から音読した。

「僕、ほんとうに24歳なの?」
「本当ですよ、ほら」

 右手を広げてマレに向けると、マレは左手を恐る恐るといったふうに重ねて、あ、と声をあげる。

「ほら、手もこんなに大きくなった」
「ほんと、だ」
「指輪が気になりますか?」

 マレの視線が自身の薬指に注がれてるのがわかって、すこし怖くなる。

「うん、なんか……仁さんとお、お付き合いっていうのもよくわかんないっていうか、恋人、恋人かぁ……」

 マレの感情を一言で言い表すなら、「困惑」だった。

「……指輪は外してしまいましょうか、マレのは」
「え?でも、僕が外すなってここに」
「周りの環境に慣れるのも大変なのに、見覚えのないものがどうしても目につくところにあったら困るでしょう」

 どこか、期待していたのかもしれない。私に対して恋心が芽生える前でも、きっとマレは私のことが愛おしくて、記憶がなくても、指輪を買ったあの日のように喜ぶのだろうと。

「うーん、じゃあ、仁さん持っててくれる?ぼく、これつけてる資格、ない気がするし……」
「……ええ、いいですよ」

 殆ど同じサイズだったから、自分の指に通してみる。銀と金の環が左手の薬指で光るのはまるで、男女がまず婚姻をして、それから結婚した時のようで、マレと「結婚」したことがなくなってしまったようだった。母の指に、忌々しいほど似ていた。
 指輪を眺める為に開いた指の隙間から、マレが私の顔を覗き込む。何か言いたいことがあるのかと目を合わせれば、仁さんほんとうにもうすぐ35歳なの?と言った。

「めちゃくちゃきれいなんだけど」
「……そうか」
「髪型も、変えたんだね。似合う!かわいい」
「そうか」
「……触ってもいい?」
「どうぞ」

 恋人じゃないマレとの距離感なんて、もうわからなかった。そうして頬に手を添えた時は、唇をあわせるのだ。髪を撫でた後も、前髪越しの額にキスをくれる。マレは、

「ぼく、仁さんと20歳離れてたってファンになってたなあ」

 私の恋人だったのに。
 立ち上がれば背の高さに驚いた様子で、仁さんを越してると嬉しそうにしていた。旅行なのに服少なすぎ!と笑って着替える。思えば付き合うまでは2人で遠出なんてしたことがなかった。荷物をしまいながら、見覚えのない私物を興味深そうに見ていた。最後に部屋を見て回っていいかと聞くので頷く。きっとマレには初めて見る豪華さなんだろう。子どものようにはしゃいで見て回って、窓からの眺めを携帯におさめていた。

マレ、その携帯の画像を見てごらん」
「んー?あ、あはは!」

 全く同じ位置から撮った写真が並んでいるのを見て、同じ行動をしてると笑った。
 次のホテルに向かう途中で、やっと朝食を食べた。もう昼食の時間だった。あんなに朝寝坊をしたにも関わらず、車で移動している間、マレは私の膝に頭を乗せて眠っていた。髪を撫でながら、この身体はつい先日抱かれて、抱き潰した恋人のものであるのに、表情や動きが15歳になると身長もあのころの高さに思えてくるのだから不思議だと思った。
 2つ並んで光る指輪には気が滅入りそうになったが、ほかにこれをおさめるべき場所も思い当たらないし、そんな、私の気持ちよりもマレだと思考を振り払う。こう一気に消えたとなっては、明日には幼児かもしれない。そうなったら早急に自宅に帰るしかない。いや、すでに自宅に帰るべきなのかもしれないが、私はどうしてあの日マレと遠くに行きたかったのか、多分死を感じて、それまでの時間をただ、何も介入しない2人きりで過ごしたいと、駆け落ちのような気分だったのだろうと、今は思う。何から逃げようとしていたのか、マレと出会ってからの私は時々、どうにも私自身にもわからない答えを導き出す。そういえば、食事中に「九石」を確認したら、やはり読めるようだったからほっとした。気がついていないだけで、同じような長期記憶に分類されるなにかは少しずつ残っているのかもしれない。ほんの数日前の「九石」が長期記憶に分類されているのかは疑問だが、人間の脳にはなかなか忘れにくい記憶があるそうだから、たとえ思い出のほとんどを忘れても生き方までは無くさないだろうと、そうであればいいと思う。昨日、医師も同じようなことを言っていたし、少し安心した。それから、恋人だと聞いてマレは困っていたようだから、明日からは別の日記帳に書かせようと思う。毎朝私が口頭で説明すればいいだろう。それで、私の恋人のマレが切り離された日記を読めばいい。指輪を外すと言ったマレに、間違いなく衝撃を受けたし、こうして私だけがマレを愛おしく思っているのは、なんというか、つらいが、それでもこれ以上記憶が消えなければいいと切に思う。一番良いことを考えるなら、次に目覚めたら記憶が全部戻って、またマレが私を愛してくれないかと、ああ、そうか、これがいわゆる「片想い」というやつなのか。
 こんな想いを抱えたまま、どこにいるのかいつ戻るのかわからない私に、15歳のマレは、あんなに小さな身体で、恋をしていたというのか。
 段差があったのか、車が大きく揺れた拍子にマレが飛び起きた。前を見て窓の外を見て、それから私をみて、ふにゃと破顔する。

「あれ?仁さんだ、おはよ。ほっぺはもうだいじょーぶ?」
「寝ぼけているんですか」
「ええ?ていうか、ここどこ、どこに向かってるの?僕お布団でねてたと思うんだけど」
「……マレ、今朝私が話したことを覚えていますか」
「けさ?いまが今朝じゃないの?」

 ああ。

「……何故、私の頬を心配したんですか」
「だって昨日、クーさんにぶたれて真っ赤に……あの、ごめんなさい。僕、仁さんのこと置いて行って、ちゃんと冷やしたり手伝ったらよかった」

 そうか。

「手をね、パシッて払われて、嫌われたらどうしようって思ったら何にもできなくて……自分勝手だった、です。ごめんなさい」

 マレはここに戻りたかったのか。

──振り払われた手の感覚をずっと覚えてる。 いつもきらきら、真っ直ぐ自分の歩く道を見据えてる海色の瞳が、迷子みたいに揺れて、深海みたいに濁って、なのに鮮やかに真っ赤なほっぺがとても痛そうだった。僕はそれまで何度も仁さんに触れたり、わがままを言って甘えてきたけど、1度だって引き剥がされたり、有無を言わせず拒絶なんてされたことがなくて、自惚れていたんだと思う。俯くとふわふわの髪が顔を隠してしまって、もしかして泣いてるんじゃないか、ほっぺは傷になってないだろうかって心配になって、顔をあげて欲しくて手を伸ばした。仁さんにだって、触れられたくないところとか、見られたくない顔とか、あるはずで、それを1度ダメと言われたからって勝手に傷ついたのは、本当に救いようのないほどわがままで、傲慢で、自分勝手で、自惚れで、今ならそうわかるのに、その時はなんにもわからなくて、自分のことにいっぱいいっぱいで、だから仁さんがなにも持たずにどこかに消えてしまった時、ぼくをいらなくなってしまったのか、もともといらなかったのか、あんまりわがままだから当たり前なんだきっとって、後悔、した。クーさんが振りかぶった時に僕が飛び出したらよかった。尻餅をつく前にせなかを支えてあげたらよかった。皇さんに、言い返せばよかった。拒絶されることを怖がらずに、仁さんが落ち着くまでそばにいたらよかったのに、ヒロさんの落ち着いた声で名前を呼ばれて、ふらりと付いて行ってしまった。ぼくは、ぼくは仁さんのことが大好きなのに。悪いことしてたって、仁さんが正しいと思うこと、周りに証明したいともがいてるのを応援してるし、それで傷つけられた誰かに仕返しされて、仁さんが膝をついたら、ぼくは少しでも支えになろうと思ってたのに。もし仁さんが道に迷ったら、僕がのんびり歩いてるこの道をおすすめしようと、仁さんはずっと走って、誰よりも前にいようって絶えず努力をしてきた人だから、足を止めたくなったらここで休憩しようって、言えたらいいなって、思ってたのに。甘やかしてくれる仁さんは、きっとぼくのことをほんの少しでも好きでいてくれるのかなって、ともだちみたいに思ってた。自分勝手だと思うのに、仁さんが欲しくてたまらなかった。僕を愛してくれなくていいから、僕が側で仁さんに尽くすことを許してくれないだろうかって、ほんと、わがままだ。シュワルツローズで再会できたとき、ぐるぐる破裂しそうだった自己嫌悪はシュウとしぼんで、ちくちく募ってた仁さんへの愛おしさが代わりに破裂した。仁さんを失うのがこんなにつらくて悲しいなんて知らなかったの。ずるずる、仁さんは僕が仁さんを大好きでいるのを許してくれたけど、僕は、この大好きと、自己嫌悪と、後悔を、上手に文章にして謝ることができなくて、やっぱりこわくて、なんども確かめるみたいに抱きついたり、好きと言っても仁さんが嫌がらないのを、ほんと、何度も確認するみたいに。底なし沼みたいだ。仁さんがいくつ受け入れてくれても、次はだめなんじゃないかとか、そんな、いつも思ってたわけじゃないけど、あの夜のこと謝らなきゃって思うたびに足がすくんで、動けなかった。僕はぜんぜん、あんなに後悔したのに、あの時とちっとも変わってなかったんだと思う。こわい。仁さんに嫌われるのがこわい。僕のまっくろな気持ちを受け入れてって言う方が、傲慢なんじゃないの、謝りたいなんて、自己満足だよ。でもあの時たしかに僕はひどいことしたのに、仁さんを裏切ってしまったようなものなのに、なかったふりしてニコニコ甘えて、いつか仁さんは嫌気がさすかもしれない。そしたらまた後悔するの、謝ればよかったって?だって、こわいんだよ。仁さんは無欲なひとだから、謝罪なんて望んでないかもしれない。前しか見てなくて、仁さんを過去にとらえたのは、「家族」だけ。ぼくの些細な裏切りなんて気にしてないかもしれない。やっぱりこれは自己満足だって、口を閉じて、まるで心にないみたいに、見えない奥までしまい込んだ。もし僕が仁さんに、同じようになにかを抱えこませていたら、そんなの、僕は仁さんの全部受け止めるのにってきっと悲しくなったにちがいない。でも仁さんは僕と違うし、きっと僕のことなんて、邪魔か邪魔じゃないといえば、まあ邪魔じゃなくて、好きか嫌いかで言えば、まあ好きくらいだろうし、僕と同じ気持ちを望むなんてそんなこと、できるはずもない。ああ、それは別に悲しくなんてなくて、僕は仁さんが生まれて来てくれて、プリズムショーの道に進んでくれて、僕と出会ってくれて、それで、こうしてそばにいるのを許してくれるだけでもう返しきれないほどの贈り物をもらっているし、両想いなんてそんなの、夢というのもおこがましいって感覚だ。たくさんのものもらったからお返しがしたい。仁さんが喜ぶことしたい。仁さんを思いやって、大切にしたい。大抵のことは迷いなくできたのに、あの夜のことを謝るかどうか、僕はずっと判断できなかった。それで、つもりつもってこんなことになって、さいあくだ。仁さんを泣かせた。さいていだ。仁さんにつらい思いさせて、こんな、僕と出会ってなきゃこんな想いせずに済んだはずなのに。置いていかれるつらさなんてぼくが1番知ってるのに、こんな、仕返しみたいな風になって、さいていだ。仁さんがぼくのこと、だんだん好きになってくれてるの、しってたのに、また自分勝手に、自分が傷つくのが怖くて逃げて、ばかだよね、ほんと。ぼく、むかしとかわんないね、さいてい。謝りたいのに、決断する勇気もなくて、それで仁さんとの大事な思い出みんな犠牲にして、ぐだぐだ悩む前の自分に押し付けて、仁さんがどんな気持ちになるのか想像できないはずないのに、勝手に、ぼくの身体は仁さんの苦しみよりぼくの後悔を優先させて、さいていさいあくで、ぼくなんか、ぼくなんか、ぼくなんかしんじゃえばいいんだ。
 ばか。ぼくがしんだらじんさんはもっとかなしむ。じんさんはぼくのこと、あいしてくれてるからいま、こんなにないてるんだよね──

 慌てる様子が今朝と同じで苦笑した。そうだ、そういえばこの頃のマレは私の涙なんて見たことがないんだから、当然だ。ぎこちなく頭を撫でてくれる手も、心配そうに覗き込む顔も、マレの困惑も全部無視して飛び込んでしまいたい。抱きしめて、耳元でぜんぶウソだと囁いてくれたら、涙なんてすぐ止まるのに。もしそうなったら、謝るのは私のほうだ。置いていってすまなかったと、マレが私を大好きでたまらないのは、他でもない私が1番知っていたのに、裏切ったのは私だと。そして抱きしめて、もうこんな想いはさせないと約束して、マレのどんな想いでも受け止めるから、勝手に抱え込むなと叱れるのに。

「……まれ、あなたは記憶障害なんです」

 どうにか息を整えて絞り出した。

「15歳のつもりでしょうが、実際は24歳なんですよ。身体が大きく成長してますから、ほら、手を出して」

 なにを言っているのかという様子のマレの手をとって、合わせる。

「ほら……ついこの前誕生日でしたから、8年で、あなたはこんなにおおきくなったんですよ」
「ほんと、だ」

 つい左手を出してしまったことを後悔した。なるべく見たくはなかったのに。
 マレが咀嚼できるように、なるべく簡単な言葉でゆっくりと説明した。外を見たり、私を見たり、携帯を見たりして状況を把握すると、僕が記憶をなくしたから泣いてたのと聞かれた。言葉に詰まった。私に謝りたくて、きっとあの日「なにもできなかった」ことを後悔して、その想いがこんな形になるほど強かったんだろう、私は愛されているんだとどうしようもなく自覚した。今じゃきっと意味がなく、あの時に謝ればよかったという後悔。私が翌日にマレと顔を合わせていれば、マレに何度も自分が消える思いをさせずに済んだのかと思うと、自分に苛立って仕方がない。後悔、後悔。私が迷い、過去に囚われてる間、マレはずっと隣で、決して強く袖を引かずただ、あの道はどうだろう、ここはどうだろうと、私に見えない世界を教えてくれていた。前しか向いていないと思っていた。いや、そう私が思うように1人で抱えていたのだろう。打ち明けてくれれば受け止めたのに、なんて、言えるはずもない。マレをきちんと愛せていなかったから、苦悩を察することもできなかったのだし、マレがそんな私を信頼できなかったのは、当然だ。ずっと片想いの気持ちだったのだろうか。キスをしても、身体を拓いても、指輪をはめても、頭のどこかでは私の不誠実さを理解して、それでもいいと笑いかけていたのだろうか。これはきっと愛おしさで、涙が溢れたのだとおもう。

「……そうだよ」

 だがそんなことを、このマレに言うわけにはいかなかった。マレの言葉を肯定すると、ますます眉を下げて、ごめんと言った。ぼくなんで忘れちゃうようになったんだろう、最低だねと、俯いていた。
 マレが今まで後悔したぶんだけ繰り返せば、また私の元に戻ってきてくれるのだろうか。何年かかるだろう、だがそれでもマレの満足の行くまで、好きにさせてやろうと思いかけて、はたと気付く。それでは今までと同じではないか。マレマレの思うようにしたいことをさせるのは、私の甘えではなかったか。私は、私がマレになにを望んでいるのか、語ったことなどないのではないか。マレは、マレはいつでも私の希望を聞いてくれるのに、私はなにも言えなかったが、それは、私の気持ちが知りたいという、マレの意思のあらわれではなかったか。
 待てと言われれば待てる。だが私が「どうしてほしいか」と言えば、それは勿論、今すぐにでも記憶を戻して、私を抱いて、好きだと耳に吹き込んでほしい。ほしくてたまらない。
 言おう。これが拒絶されたとしても怖くない。マレは私のことが大好きで愛おしくてたまらないんだから、そんな一度の拒絶なんて、なにも怖くはないのだ。

マレ、最低なのは私のほうだ」

 顎を持ち上げて目を合わせる。15歳のマレに、瞳の奥の、脳の奥に閉じこもっている私の恋人に伝わるように、視線を交えた。

「私はマレを、蓼丸マレを何より愛している。どんな想いだって受け止めるから、どうか、また私を愛してくれないか」

 上手い言葉はみつからなかった。本当の愛の言葉なんて、考えたことがないのだから当たり前だった。マレの空色の瞳が揺れて、顔が強張るのがわかった。聴こえているだろうか。
 顎に添えていた手を離して、マレの左手を取る。銀の指輪を外して、マレの薬指に合わせる。視線を逸らさずにいたら、マレが唾を飲むのがわかった。下に視線をやって、間違いなく左手の薬指の先に銀色の環を合わせているのを確認する。マレがつられるように自分の手を見て、肩をぴくりと跳ねさせた。見えているだろうか。

マレ

 名前を呼べば再び目が合う。マレは少し、怯えるような表情をしていた。私も怖い。
 だが、伝えねばならない。

「すまなかった」

 根元までしっかり嵌めて手を握った。もう外れないように。この感覚が伝わるように。
 小さな少年が、私のきらめきをみつけて迷わず逢いに来てくれたように、もう一度、間違いなく私の元にやって来てくれますように。

──指輪を受け取る日、家から近所のお店だったから、2人で並んで歩いて向かった。人なんて全然いなかったけど、仁さんは手を繋ぐのを許してはくれなかった。しょうがないね、でも指輪は買ってくれたもん、嬉しかった。どこでつけようかって話してた。式みたいなのは挙げないし、出会いも告白もエーデルローズとかシュワルツローズの執務室で、デートもあんまりしないし、特別思い出の場所みたいなのがなくて、かといってお店でつけるのもどうなんだろって、そんな話。プロポーズだってパッとしたようなのじゃなくて、仁さんちで進路を考えていた時に仁さんが、うちに勤めて一緒に住めばいいって、なんだか当たり前にずっとそう思ってたみたいに言って、いいの?って。これって同棲かな、もしかして結婚かなって言ったら、仁さんはしばらくじっと僕の顔を見つめて黙ったあと、結婚、って言った。病める時も健やかな時もどんなときも僕は仁さんを愛してるって誓います!って、ほっぺにキスしたら、仁さんはこれまた珍しく頬を染めて、こくりと頷いた。そんで、僕はこれは高校を卒業したらずっと言おうと思ってたことだったんだけど、仁さんとえっちなことがしたいよって伝えて、まあ紆余曲折あったけども、それでたぶんふつうの恋人がするようなことはぜーんぶしたとおもう。ね、記念になるような場所がないでしょ。うんうん悩んでたら、早くつけたいんだろう、私は店でも構わないって仁さんが言って、だからお店で受け取る時にそのままつけてくことに決めた。
 僕は跪いて仁さんの左手の薬指に上手にはめることばっかり考えてて、まあ、多分ぎこちなかったんだけど上手に出来て、仁さんも満足そうにしてたからほっとしてそれで、自分の分は自分でさっさとはめちゃったんだよね。するって。仁さんとお店の人、ほんとにぽかんとしてた。マレ、それ……って、仁さんが震える指で僕の手を差して、アッて気付いた。仁さん、怒るでも拗ねるでもなくほんとに落ち込んでて、ごめんねとか、やりなおそっかとか、なんなら式あげよとか言ったけど、力なくふるふる首を振ってた。いつも糸を張ったみたいにピンと伸びてる背筋が曲がって、肩を落として、あんな仁さん見たことないってくらいしょんぼりしてて、ほんとにごめんね。まあ今じゃ、笑い話なんだけどさ。
 だからこうして、仁さんが僕の手を取って指輪をはめるっていうのは、初めてなんだ。泣きそうな顔で、すまなかったって、細くて消えそうな声だった。僕の身体がなにも言えず、瞬きもできないでいたら、仁さんは切なそうに眉を寄せて、それから僕の手の甲にほんの少し、触れるだけのキスをした。唇が震えているのがわかって、僕も泣きそうになる。
 こんなに愛されてるのに、なにが怖いんだろう、ぼくは。
 ごめんね仁さん、ありがとうね、ありがと──

 せっかくとったのだからと休暇を満喫した。仏像を観るのが好きなマレは、私にはいまいち違いのわからないあれそれの名前を言いながら、ここがかっこいいとかこれは誰が作ったとかはしゃぎながら跳ねるようにあちこちを回っていた。鹿は苦手なようで、餌を求めて寄ってくるのに怯え、もってないんだよぉと情け無い声を出しながら私の後ろに隠れていた。そのくせ私が鹿と触れ合うところを写真におさめたいなどとよくわからないことを言って、私に鹿せんべいを買わせる。買ったそばから近寄ってくるのが怖いんだそうだ。餌を持って突っ立っていれば勝手に鹿は寄ってくるので、口元に持っていけば私の手ごと舐める勢いで貪られる。気付けば数匹に囲まれていて身動きが取れなくなっていた。その様子をマレは安全なずいぶん離れたところから、かわいいかわいいと何度もシャッターを切る。そのかわいい、他人には鹿に言ってるように見えているんだろうな。鯉のいる池もあって、そっちには楽しそうに餌をやっていた。重なるように頭を出して貪欲に口を動かす魚のほうが私は怖いが、マレはイエーイみんなげんきーと言って、のほほんとしながら餌をばら撒いていた。そう近づいて来られないからだろう。それにマレは、動物園より水族館が好きだし、深海に生息するなんとも不気味な容姿の生き物も好きなようだから、鹿よりこの…感情のない目をしたぬるぬるの鯉の方がかわいいのだろう。私は鹿のほうがマシだと思うが。
 奈良の次は大阪に向かう。賑やかで目に痛い街の散策と天秤にかけて、結局テーマパークに入り浸っていた、2日も。なにをそんなに見るところがあるのかと思ったが、どうも大好きな作品の世界観を模した場所があるらしく、初日は大半をそのエリアの散策に費やしていた。海外のサイトでみてたグッズが日本円で買えるなんてと興奮した様子で、目移りするのか商品を籠にいれてウロウロしてはべつのものに替え、これはあのシーンで出て来たやつなんだよとか、映画とおんなじだとか、あっこれは何々だ!とか、私には理解できない言語をなにやら懸命に話していた。わかった、欲しいのは全部買ってやるからと言うと目を輝かせて、これは同じ柄だからこっちだけとか、興奮冷めやらぬ脳でそれでもどうにか選別していた。こんなにマレが夢中で買い物をしているのを見るのは初めてのように思う。3、4店舗回って、会計のたびに青ざめた顔をしていたが、カードを出しながらその温度差につい笑うと、マレは照れ臭そうにありがとうと言った。作中の衣装に身を包んで歩いていると、なんだかよくわからないが、あちこちでスタッフに作品に関する言葉をかけられていて、マレはそのたびに花がほころぶように笑っていた。連れてきて良かったと思う。
 翌日にやっとほかのエリアを回り、およそ食べ物の色とは思えない発色のあれそれを食べ、マレの選んだなんだかよくわからないものを頭につけられて、長蛇の列に並んだり、人に揉まれながらショーを見たり、なんだか普通に生きていたら味わうことのない浮遊感に命の危機を覚えたりしながら(マレは狂ったように笑っていた。好きらしい)閉園まで遊び尽くしてすぐそばのホテルに帰った。流石に疲れたのだろう、部屋に備え付けられた風呂でうとうとと頭を揺らすマレを引きずってベッドに寝かしつけ、1人部屋を出る。間食を頻繁にしたためか空腹感はあまりなく、簡単に夕食をとって大浴場に向かった。夜景を眺める。うちより低いと不服そうにしていたマレを思い出して、笑みがこぼれた。あれはわざわざ世界一の高さにし、その頂上に湯を張っているのだから、当たり前なのだ。もっと自然の地形を利用した場所ならばあるいは、あれよりの高さはあるだろうが、夜景となればそうないだろう。世界一高いなんてわざわざ教えていないから知らないのかもしれないが、マレが知らずに私の色に染まっているようで気分が良い。明日の朝ここにも連れて来よう、きっとまた不満そうな顔が見られるだろう。
 あの日、記憶が戻ったことをマレの実家に伝えると、是非顔を見せてくれと言われたようで、大阪の次に広島に向かうことになった。すぐでは無くていいのかと訊けば、仁さんとせっかく旅行なんだからそっちも楽しみたい!と。親不孝者めと思う。まあ、真っ先に旅行に連れ出した私に責められるわけもなく、了承した。マレの実家には一泊して、真っ直ぐ東京に帰る。地中海と同じくらいの期間だったのに、この1週間は随分長く感じられた。
 マレのご両親に叱られるかと身構えたがそんなことはなく、むしろ礼を言われた。菓子折りを渡すとさらに頭を下げられ、お土産の山を先に自宅に送っておいて良かったと思う。マレにしては珍しい散財のあとを見たら、地面に額を擦り付けていたかもしれない。そんな光景は遠慮願いたい。
 蓼丸家はあたたかい。マレの表情は母親に似たようで、気の抜けるようなのほほんとした笑顔で仁さんと呼ばれると、一瞬マレかと思うほどだ。つり目は父親に似たようで、こちらはあまり表情がなく、そのせいで初対面では厳つい印象を受けるが、マレよりもどうしようもないくせ毛を見るとなんとも口角があがってしまう。よく似た親子だ。母親によく似た可愛らしい顔立ちの妹は、父を真似てか私を仁くんと呼ぶ。かっこいいものが好き、だそうで、マレはお土産にぎらぎらとあちこちが尖った龍の、よくわからないキーホルダーを買っていた。だいぶ喜んでいるらしい。私は聖になにか、土産に与えたことなどないなと思い出し、仲の良い兄妹だなと思う。マレが土産話をすれば妹は目をきらきらと輝かせて行きたいと言い、無責任にも一刻も早く行ったほうがいいよなどと言っていた。仁くん連れてってくれる!?と、急に指名を受けたので驚いて顔を上げ、思わず、俺かと答える。仁さんはもう行ったからいいのとマレが口を尖らせ、両親が笑う。あたたかい家庭だと、本当に思う。
 妹がうとうとし始めたので、マレが寝かしてくるねと部屋を出る。母親は空いた皿を洗ってくれているようで、食卓には私とマレの父親が残る。彼は、あまり自ら話さない方なので、沈黙が訪れる。注がれる酒に礼を言って口をつける。私も強いほうだが、この人は本当に顔が変わらないので、ざるなんだと思う。マレの持たせていた鞄から封筒を出し、机に置く。

「今回ご子息にご迷惑をおかけしたお詫びです」
「要りませんよ」
「どうか、ご家族で旅行でも行ってください」
「……仁くん、何か勘違いしちゃいませんか」

 関東の出身だそうで、標準語だというのに威圧される。広島弁だったらもっと怖かったと思う。

「私どもはね、本当にあんたを信頼してんですよ。マレがあんなに幸せそうで、あんたには感謝しかない。こんなことになって、それでも離れずにいてくれた仁くんに、私のほうがなにか包まにゃならんくらいなんです」
「それは、私も同じです。マレにも、マレを預けてくださるご家族にも感謝しているんです。私はもう、あの子がいないとだめなんです」

 お食事とお宿の分と思って受け取ってくださいと言うと、珍しくかかかと笑って、こんな高ぇもんに見えますかと聞かれ、素直にいいえと苦笑する。

「私の家の食卓に会話はありませんでした。母の手料理なんて、食べたことがありません。常に洗練された、一寸の狂いもない完璧な料理を与えられていたはずですが、私には味がしたことがなかった。舌が生まれつきおかしいのだと思っていました。一緒に住むようになって、マレが適当に作った炒め物は信じられないほど美味しかったんです。お母様の料理は、同じ味がします。それを心ゆくまで頂けて、私には正直、この食事に値段はつけられません」
「あんたは本当に口が上手いな」

 少し困ったように笑う顔は、たしかにマレに似ていた。接待の時のように力に入っていた顔を緩め、マレには通用しませんがねと笑う。下も行きたがっていたし有難く頂戴しますよと、やっと受け取ってくれた。本当は、この一家にはもっと継続して経済的な支援をしたいくらいなのだから、せめてこれくらいは懐に入れて貰えないと困る。

マレ、戻りませんね」
「多分一緒に寝てんでしょう」

 なるほどと呟いて最後の一口を喉に通す。少しして母親が戻り、マレ寝てしもうたみたいで、仁さんはどちらで休みしちゃってですかと聞かれたので、客室で結構ですよと答える。マレも久々に妹と会えて嬉しかっただろうし、そのままでいい。
 瓶を持ち上げた父親がありゃもうないと呟くのが聞こえて、本当にざるだなと思う。私も流石に火照ってきた。
 だからこれは、アルコールのせいで多少気が大きくなっているのかもしれないが、明日はマレになにが食べたいか言おうと思う。食べたいもの、なんて正直思いつかないが、考えておこう。きっと喜んで、張り切って作ってくれるに違いない。毎回は難しいし、そういくつも考えるのはできないかもしれないが、マレが作るところを想像すると、不思議と、鍋をかき混ぜてるのが見たいとか、野菜を切っているのが見たいとか、白米をよそうのが見たいとか、そんな些細なことは思いつくから、それを手かがりに料理を考えてみよう。料理が思いつかなくても、もしかしたらマレは、この食材とか、そんな希望でも喜んでくれるのかもしれない。
 誕生日でしょうと声をかけられる。ええ、マレももう24ですねと答える。違くて仁くん、あんたもうすぐでしょうと言われ、そういえばそうだったと、はいと答える。

「おめでとう」

 大きな手に撫でられて、そうだ、この人は私の、義父でもあるのだと、妙に気恥ずかしくなった。

マレより先に言っちゃあ怒られますかね」

 悪戯っ子のように片方の口の端をあげて笑うので、なにも言えなくなってされるがままでいたら、離れたところからあー!とマレの声が聴こえた。

「仁さんがパパと浮気してる!」
「パパが仁くんと浮気じゃないのか」
「同じだよ!!やめてやめて!」

 慌てて近寄り手をはがしたかと思うと、私と父親の間にぎゅっと詰まる。狭い。

「お酒ないし!もう!」
「んはは」
「酔っ払ってんじゃん!どんだけ飲んだの、もう!」

 これでお父上は酔ってらっしゃるのかと驚いた。

「仁くんもうすぐ誕生日だから、おめでとうって言っただけだよ」
「まだですぅ!」
「ふっは…はいはい」

 マレの頭も撫で回していた。私に撫でられる時は素直に嬉しそうにするのに、マレは拗ねたような顔でされるがままになっていた。

「……ぼくも一緒に飲みたかった」

 否、正しく拗ねているらしい。

「また来りゃいい」
「来月、夏休みの間にでも連れて来ます」
「え!仁さんいいの?」
「改めてもっとゆっくりお邪魔しよう」

 ぱあと顔が綻ぶ。マレが嬉しそうにしていると、私も嬉しい。
 誠実に愛することがどういうことかなんて、多分これからもわからないだろうが、マレの喜ぶことを考える時間は、今まで与えられた心地よさとはまた別の感覚だなと思う。
 緩む口を隠したくてグラスに口をつけると、からっぽだよ仁さんと、マレが笑った。